配送遅延

 前回、なんとか書き上げた、と書くも、その時刻は書かなかった。
 配送手配したのは八月二十三日午後六時十五分。
 最後の人に届いたのは二十五日の夜十時四十六分。
 丸二日以上かかったことに唖然だが、Gmailがサーバーの制限をして
いるのが原因だとか。でも、遅延は無料メルマガだけ。不思議だなあ。
 まあ、よい。
 無料なんだし。
 一応原因がわかったので、今回のがいつ配送完了になろうとも、「泣
くまで待とうホトトギス」である。
 焦らない。
 焦る必要がないから。
 同じような考え方は以前も書いたが、今回、改めて、心のゆとりは大
切だと思った。
 通販などで配達日を指定する。日のみならず時間帯までも。
 仕事上追求されてきた厳格さが、個人向けにも応用できる時代が来た
おかげだ。
 たとえば、きのう、郵便局からの不在連絡表が入っていたので、イン
ターネット上で再配達可能日時を見て、夜の九時前に持ってきてもらっ
た。
 ありがたい。
 けど、一方では、こんな時刻まで働かなくてもいいだろうにと、働く
よう強いた張本人の私がそんなことを思ってしまった。
 忙しい現代人は、私生活でも時間指定を望む。
 それでは足りずに、今、どのあたりまで配送中かをこまめに調べたり。
 人に機械のような正確さ、迅速さを求めるわけだが、であるなら、自
分自身もいつか同じことを求められてもいいってことなんだな、と考え
ると、落ち着かなくなってくる。
 もっとおおらかでは駄目かなあ。
 正確さやスピードという、もともと仕事で必須の価値観が、いつしか
私生活にまで深く入り込んだ。
 その恩恵は多大だが、その価値観一辺倒ではまずいのではないか。
 だって、この世の大半のことは、その物差しでは計れない。
 ニホンの中だけで生きるのであれば、「いや、そうなのだ」と、死ぬ
までこの価値観にしがみついて生きていけるかもしれないが、でも、や
っぱ、なんか息苦しい。
 五月に、ネット注文で花を贈ったが母の日に届かない、という苦情が
殺到した業者があったそうだが、花さえ手配しておけば親孝行、と判断
した自分自身の心根を考えさせられる良い機会になったとみて、親に、
来年は自分が花になって会いに行くよ、な〜んて洒落たことを言った人
はいないのかなあ。
 人生の中で、どうしてもこれだけはこうでなくては困る、ということ
は滅多にない。
 それに、そういう制約が少ないほど、爽やかに生きられる。 
 人を許し、自分を許せる範囲がぐんと広がるからだ。
 軽やかに生きよう。