「自分なら」と言いたくなる時 2

 ベンツおじさんの気持ちも、わからないではない。
 大の大人が、留学費用を親から出してもらうのはまあ良しとして、在
学中に結婚し、ダンナの大学卒業が一年、二年と延期になっても双方の
親からの仕送りが続いている現状って・・・。
 このあとに続く意見は、ベンツおじさんなら「そんなのあかんやろ」
であろう。
 私は、少し前まではおじさんと同意見だったかもしれないが、今は
「いいんじゃないの」。
 だって、人にはそれぞれ背景がある。その背景がそうすることを許す
のに、そこを批難するのは、じゃあ、ニホンで服を安く買えるのは、東
南アジアの工場で過酷な労働条件で働く人達の犠牲の上に成り立ってい
るからで、明らかに不当なことであるから、自分だけは高く支払います
か、というような話にも繋がるであろう。
 だが、ベンツおじさんは自分こそが正義。
 この時も、
「ダンナは本当に大学を卒業できるのか」
 と嫌がらせのようなことを言ったあと、その国でも日本の大学のよう
に在籍できる最大年数が決まっているではないかと私に答えを強要する。
「知りませんけど、フランスはそういうことはないので、同じじゃない
ですかぁ」
 と私。
 おじさんは、必然的退学を仄めかして慌てさせる路線から切り替え、
自分は自分の稼ぎで結婚相手を養えるようになって結婚したし、結婚し
てからも妻子に金銭的な不自由だけはさせなかったと思う、それだけは
自慢できるが、夫の責任はやっぱりそれではないか、
「まあ、これはおっちゃんの考え方やけど」
 最後はあくまで単なる個人的意見ということを強調して、大人の老獪
さである。
 彼は、自分は貧乏な家に生まれたと恨み言を言うけれど、結局は事業
で成功した親の仕事を引き継げたからこその今、という点は不問に付す。
そこを突かれると、人一倍必死で働いたと言う。けど、必死で働かない
人っているのか。
「自分は」という話し方で蕩々と自分の過去を語るのは、要するにそれ
こそが正しい生き方だ、として自分の価値観の押しつけようとする行為。
 それが有効なのは、彼と同じ「質」に生まれつき、彼同様、この世は
金だ、金を稼いで金の力で人から尊敬されるのだと考える人達だけなの
だが、なんで的外れな相手まで説得しようとするかなあ。
 もっとも、ベンツおじさんのおかげで、「自分だったら」と言いたく
なるのは相手を批判したい時だと学べたのだが。
 批判したくなるのは羨ましいから。そんなのずるい、と思うから。
 でも、なぜ。