追い詰められない

 個人のブログの中の『僕が菜食をやめた理由1〜12』へのアクセス数
が多いと知って、遅まきながら読んだ。
 著者は完全菜食主義者となった五年目ぐらいから体調不良になるが、
菜食は健康だと信じているから、その危険性を説く歯科医には真っ向か
ら反論。
 しかし考える人であったらしく、感情的に反撥するだけで終わらず、
いろいろ調べて、完全な菜食は人間に合わないことを人類発生当初から
の生物学的事実として納得。自分は低血糖と栄養失調になっていたのだ
と気がついて菜食をやめたら、体調は戻るし、怒りっぽかった性格は穏
やかになるが、ここに至るまでに九年の歳月を要したらしい。
 ところで、彼の文章の中で私の心に一番響いたのは、
「正しいマクロビオティックが出来ていない。
 この言葉にどれだけの人達が自分を追い詰め、
 どれだけの人達が体と心を壊して行ったでしょうか?」
 という部分だった。
「私はできるけど」
 というような言い方をされただけでも、言われた方は、
「自分は、やり方がどこか間違っているから、ちゃんとできないんだ」
 と受け止める。
 この心の動きは、どの世界に属しているかに関係なく、どこでも起こ
ることなんだ、と改めて思い知らされたのだ。
 私達の社会は、学んで何かを身につけ、それを応用する、という側面
が強い。ために、やればできる、という論理が唯一絶対だと思ってしま
うのではないか。
 からだが宙に浮かないのは、修行が足りないせい。
 我が子が多動なのは、私の躾が悪いせい・・・。
 はっきりそう言われなくても、遠回しの言葉や視線を浴びただけでも、
自分のせいだ、と身を縮めてしまう。
 そして頑張る。あがく。
 でも、どうにもできない。
 辛い。苦しい。
 焦る。落ち込む・・・。
 追い詰められたら、人は誰しもこの道を辿るようになっている。
 しかし、もし、そういうものなのだ、とわかっていたら。
 自分がその渦中にある時は、努力と根性でなんとかできると頑張るだ
ろうけど、もうこれ以上は無理、という所まで来たら、この世には、同
じように瀬戸際まで追い詰められ、でも、そこから抜け出した人がいる、
という事実が希望の灯となってくれるのではないか。
 だから、そういう人達の声をあらかじめ知っておけたらよさそうだが、
出合った時には自分には関係ない、とすぐに忘れ去るかもしれないし、
要は必要な時に必要な声と出合えたら感謝ってことだろうな。
 心に蓋をせず、柔軟な心で真剣に生きていればいいのかな。