心が苦しい時、なぜ、なるべくなら生身の人に頼るのではなく、まず
はその手の本か、人の心の動きを描写した創作を読んだり見たりした方
がいいのか。
からだの病気であれば、医師から病名を告げられ、そんなはずはない、
と否定の気持ちが起こっても、すぐに素直に納得することになる。自分
より自分のからだのことをよくわかってくれている、と信じられるから。
しかし、心のことは、そうはいかない。
この苦しさから抜け出したい、と思って熱心に語るのは、こういう自
分で間違っていないよね、と相手に同意してもらいたいからだったりす
る。
そういう人に、あなたは嫉妬しているだけ、その劣等感を手放せば楽
になると思うよ、と診断結果のごとく考えを告げたとしよう。たぶん、
一瞬にして、あ、この人は敵、みたいに睨みつけられる。あるいは、顔
を真っ赤にしてまくし立てられる。そこにこそ、自分でもうすうす勘づ
いているが見ない振りをしてきたことを言い当てられたという怒りが読
み取れるのだが、なんにせよ、これらの反応は、自分は間違っていない、
と自分で自分を擁護するもの。
普通の会話の中で、相手の何気ないひと言に反応していきり立つ時も、
やっぱり、相手から責められた、攻撃された、と感じて自分自身を護ろ
うとする反応である。
自分の心が対象となる時、人は冷静になれない。自己防衛セキュリテ
ィが作動してしまい、しかも、厄介なことに、これがなかなかに感度が
良すぎるのだ。
その点、他人の悩みや、作中人物に自分を重ね合わせて、こっそり学
ぶ分には、このセキュリティは眠ってくれている。
一月三十日にシリアで惨殺された後藤健二が、二0一0年九月七日の
ツイッターで、
「目を閉じて、じっと我慢。怒ったら、怒鳴ったら、終わり。それは祈
りに近い。憎むは人の業にあらず、裁きは神の領域。−そう教えてくれ
たのはアラブの兄弟たちだった」
と呟いた言葉が共感を持って広まっているそうな。
「怒ったら、怒鳴ったら、終わり」というのは別に目新しい真理ではな
い。だが、彼の言葉だからこそ、重みをもって人の心に響くのだろう。
ただし、ほんと、そのとおりだよね、としたり顔で頷いた五分後に、
鬼の形相で怒鳴ったりするのが人間。
そうなったら、また、あ・・・と思い出せばいい。
自分に必要な気づきを、違う人が、違う時に、違う言葉で語ってくれ
る。
何度も繰り返し出合うことで、一歩ずつ前進できるだろう。
それでいいんだろうな。