言葉に断捨離なし

 いつ買ったかも思い出せない手荒れクリーム二種類を、中身はまだ残
っているけど、捨てた。乳液で代用すればいいと考えて。
 だが、手荒れが気になるのはパソコンに向かった時で、でも、乳液を
取りに立つぐらいだったら手荒れを放置するという行動になるので、ク
リームを捨てたのは早まったかなあ。
 ところが、探し物があって、机の上の丼鉢のような陶器の中をがさご
そ探したら、南仏プロバンス発祥というブランドの手荒れクリームが出
てきた。
 この陶器は、ニホンの陶器に憧れて陶芸教室に通っているというフラ
ンス人の友からの贈り物。一方、クリームは彼女からもらったものでは
ない。が、誰がくれたのかは不明。
 私が買ったはずはない。
 だって、匂いが私の許容範囲を越えている。
 捨てたいと思いつつ、他にクリームはないから手に塗って、ああ、匂
いが・・・とうめく私。
 記憶というものに思いを馳せた。
 1)見なくても、覚えている物。
 2)たまたま目にしたら、ああ、こういうのを持っていたな、と思い
出せる物。
 3)見ても、どうしてそこにあるのか思い出せない物。
 記憶にはこの三種類がありそうだ。
 言葉も同じ。
 私は、たまに「鵺(ぬえ)みたい」と表現することがある。おどろお
どろしい面妖な感じと言いたい時にこの言葉が出てくる気がするが、鵺
とは何か、しかとは理解できていないから、遣いながらも、一抹、不安
だった。だって、こんな言葉、今は遣わない。
 ところが、『竹内栖鳳(せいほう)』の油絵は、その変幻自在な表現
が時に「鵺」と揶揄された、という一文に出くわして、心晴れ晴れ。
 やっぱり正しいニホン語だったんだ。
 そこで、もっと詳しく知ろうとインターネットを見たら、妖怪ウォッ
チなどで見事に現代に返り咲いている言葉だったとわかって、嬉しいよ
うな複雑な気分に。
 英語を教えている三人姉妹の長女中学生に、末っ子に対して本気にな
っても仕方がない、というようなことを言いたくて、私の口から「ちび
っちょ」と出たことがある。すかさず長女が「ちびっちょ」と末っ子を
からかう。
 私は、変な造語を口走っちゃったなあ、と焦ったが、先日、『龍の子
太郎』の中でこの言葉に出くわしたものだから、びっくり。
 この本は、過去に一度読んだことがある。ということは、その時にこ
の言葉が私の記憶に刻まれたのであったか。
 なんにせよ、言葉は嵩張らないから、いつ学んだのか思い出せなくて
も、遣えればいい。
 それがカタチなき言葉の特権のようである。