人に「劣化」と言う心理

 前回、「フラヴィニーのボンボン」と書いたが、直径1cm弱の丸い砂
糖菓子を「ボンボン」であると迷いなく書いた私の語感はあっているの
か、不安になってきた。
 調べたら、まずそれらしく見えたサイトの説明は「一口サイズのチョ
コレートの総称」。
 けど、「ボンボン・オ・ショコラ(チョコレートのボンボン)」と言
うからって、「チョコレートの」という限定を取り除いてもチョコレー
トの総称になるという解釈は行きすぎではないか。ニホン語ではそうな
のか・・・。 
 こういう時はやっぱり正規の辞書だ、と広辞苑を見たら「キャンデー
の一種」とあり、納得したけど、じゃあ、いっそ「キャンデー」と書い
た方がいいの・・・?
 フラヴィニーの缶を見たら、
「固いボンボンなので噛み砕くべからず」
 なーんだ、最初からこれを見ていればよかったんだ。
 しかし、懲りずにフラヴィニー村のニホン語のサイトを見たら、「ア
ニス・キャンディ」と書かれていて、そうか、私には、フラヴィニーの
アニス風味の砂糖菓子は固すぎてキャンディーとは認められないんだ、
と私の語感を確かめられた。
 今、人に対して「劣化」と表現する文章を目にするようになったが、
この言葉を率先して遣いたい人は、その背後にある自分自身の深層心理
を見極められているのだろうか。
「老化」「老けた」「歳を取った」という言葉には、自然の摂理を受け
入れる思想がある。すなわち愛。
 一方、「劣化」に含まれるのは、批難。劣ってはいけないのに劣った、
あるべき水準から落ちた、という冷たい裁きがあるだけ。
 テレビで活躍するような人は、顔も商品の一部だから老化の有無をあ
げつらわれても仕方がない、と考えているかもしれない。そういう視聴
者の思いが届くのか、その年齢なら本来あるはずの法令線が一つもない
し、肌も気持ち悪いほどつやつやの出演者は増えた。
 だが、「劣化」「劣化」と他人のことを揶揄する人は、いずれ、その
同じ眼差しで自分自身を見るようになる気はする。
 その時、つらいだろうなあ、と思う。
 金の力で芸能人並みに「老化を悟られない若さ」が手に入ったとして
も、その行為は「ありのままの自分」を受け入れられない、という意思
表示になるからだ。一生続く自己否定。
 私は、強力な光で顔の皺を吹き飛ばし、視聴者を騙す程度で良しとす
るテレビ出演者の方が好感が持てる。
 何かの拍子に見える実年齢相当の表情に、こういう人でも老いには逆
らえないんだ、と勇気をもらえるから。