異文化

 書く時は、書こうとする内容と長く心が向き合うせいか、その余韻が
書いたあとまでも続くようで、あとになって修正や加筆をしたくなるこ
ともある。
 前号をアップしてから、
「あ」
 新たな視点が訪れた。
 あの時点では、劣化劣化と人のことを揶揄する人は、その同じ視線で
いつか自分自身を見る時が来るだろう、その時つらいだろう、と想像す
るのが精一杯だった。
 今でも、テレビや映画に出られるような人、というだけで羨ましさや
やっかみの感情が渦巻く場合、それがゆえに、ちょっとでも批難できる
ところを見つけたら、大げさに煽り立て、攻撃することで、心がスッと
するのだろう、と見ているが、その心理的背景に、自分は彼らほど成功
していない、というような思いがあるとすると、その大前提がひっくり
返って、今のままの自分でも結構幸せ、と思えない限り、この攻撃は他
者に対してのみ発動され続ける、と気づいたのだ。
 鍵となるのは、心の大前提。
 青森県奥入瀬(おいらせ)渓流で、渓流脇の木のテーブルの表面が
苔でぎっしり覆われているのが風情があり人気だったが、その苔の一部
が剥がされているのが見つかった、という記事が二十七日にインターネ
ットに載り、今もその記事が視界に入るのは、それだけ関心を集めてい
るからだろう。
 地元ボランティアガイドの会が、苔を剥がされて「愕然とした」と書
いたら、ブログが炎上。閉鎖されることになったらしいが、
「汚れたテーブルや椅子はきれいにして使うもの」
「人工物に生えたコケに美はない」
 という反論の書き込みもさることながら、
保全が必要ならあらかじめ看板を立てるべきだ」
 という意見に、ああ、ニホン人としての大前提が一律でなくなってき
たんだなあ、と実感させられた。
 教えてくれないとわからない、というのは、まさしくそういうことだ
ろう。
 今、ヨーロッパの先進国は押し寄せる移民を受け入れようとしている
が、出身国が違う者同士のあいだに小競り合いが頻発し、彼らのために
用意された建物を壊すような騒動も起こしているし、あとから辿り着い
た人の中には、
「この国に人権はないのか」
 ひとの国なのに平然と言う者もいて、こういう現地報道を見ると、な
んたる傲慢さよ、と呆れるのは私のニホン人的精神の反応か。
 しかし、これらのいざこざは、国民性、文化の違いに起因する。
 ニホンでは、同じニホン人同士の中に、そういうことが起き始めてい
る気がして、そこに私は興味を覚えるのであった。