いまだに敵、味方

 先月のパリの連続テロ事件は、犠牲者四百七十二名、うち死者が百三
十名にのぼる痛ましい結果となったが、それでも、オランド大統領が直
後から繰り返し、
「これは戦争だ」
 と発言するのを聞くと違和感を覚えた、と言ったら、所詮戦争はひと
ごとの平和惚けニホン人、と言われるだろうか。
 でも、ニホンに住めて幸せかと考えると、そうだと胸を張れない。
 平和で幸せな国であるなら、人々はもっと心豊かに生きているべきだ
ろうに、そうでない現実を思い知らされる。
「清く正しく美しく」がモットーの宝塚音楽学校でいじめ問題が発覚し、
裁判沙汰になった時は悪い冗談かと思った。
 だが、宝塚歌劇団で活躍した人達が音楽学校の寮生活を振り返って語
る日常は、先輩が後輩をいじめる理由を探し回っているとしか見えない。
訴訟は、いじめが同期生の間でも起こった点が異質だったのかも。
 野球人口を増やそうと野球の素晴らしさを説く元巨人の選手が自身の
高校時代を語った記事を読むと、やはり先輩に奴隷のように仕える寮生
活だったとわかったが、それをなぜ今ケロッと明るく語れるのか、不思
議だ。
 ニホンでは、そういう理不尽を生き抜く強靱な精神を持つ者だけが頭
角を表わすシステムなのか。
 会社でも、学校でも・・・。
 絶対服従するしかない下の者を好きにもてあそぶのは、軍隊の中だけ
の特別ではないってことなんだ。
 人は、放っておいたら、そうなる習性を持ち合わせているわけだ。
 で、こういう集団が別の集団を前にするとどういう習性が芽吹くかと
言うと、それが敵と味方という発想であろう。
 互いに自分達こそが正義正論だと主張し、相手を異端視。これも原始
的に人はそう思考するよう生まれついていることは歴史が証明している。
 ただ、なぜ、いまだにそのレベルを卒業できないのだろう。
 敵。やっつけるべきもの。どんな手段を使っても。
 これではゲームの世界と大差ない。やみくもに相手を負かせばいいな
んて、単純すぎるのではないか。
 もちろん、「話せばわかる」が徒労に終わることも多い。でも、対話
を尽くし、理解はできねど相手の意見を尊重するという理性を発揮し、
互いに共存できる在り方を目指してこそ現代人ではないのか。
 手間も時間もかかる。それが面倒だからか、力で相手をねじ伏せれば
勝利したと考える風潮が広まっている気がする。
「同性愛は異常」とツイッターに書き込んだ海老名市の鶴指市議の一件
もそうだ。
 市議はその後謝罪したが、負けたのとは違うと思う。