人は言葉

 人の言葉で、まったく新しい物の見方を知ることがある。
 体内に胃や腸が存在するが、つまるところ、口から肛門まで一本の管
だという消化器系の医者の言葉は、その分野の人にとっては言わずもが
なの当然だろうが、私には目から鱗だった。
 他者の言葉は、世界を広げてくれる。
 それでも、
「言葉は道具などではない、自分そのもの」
 という池田晶子の論と出合った時は、言葉にそこまでの力があるのか
と戸惑わされた。
 心屋仁之助が、不幸な人の共通点はただ一つ、あるのにないと言い張
ることだと言い、「お金=愛=空気」という方程式で、ただ受け取れば
いいだけなのに受け取りを拒んで不幸を選んでいる、と説き、心の檻か
ら出ようとしない人達を目覚めさせようとする文章と出合った時の方が、
まだ素直に頷けたぐらいだ。
 しかし、最初の衝撃が過ぎると、池田晶子の「水がなければ魚が死ぬ
ように、我々にとって言葉とはそういう存在、それがなければ生きてゆ
かれないもの、よって【生命】そのもの」という言葉には、もう迷いな
く付いていける。
 問題は「言葉とは意味である」という点だ。
 先日、『しくじり先生』に出演した島田洋七が語った中に、いたく心
打たれる話があった。苦境の時、ビートたけしの言葉に救われた、と彼
が告白したのだ。
 言葉は、空気と同じで、ただ。
 でも、そのただの物がお金よりも人を救ってくれることもあるわけだ。
 一方、東国原英夫は、七月十三日のツイッターに、関テレの『胸いっ
ぱい』で鳥越俊太郎から「貴方は、宮崎で終わった」と言われた、言わ
れた側は忘れないものだ、と書いた。数ヶ月前のことを今さら書かずに
いられなかったところに、東国原の心の痛みが読み取れる。
 鳥越は、そう発言して東国原をやり込めたい意図があったのだろうか。
 意図があったか、なかったかはどうでもいい。
「言葉は人」。よって、それが鳥越の本心だったことは間違いがない。
 小池百合子は、都知事選の演説で、鳥越を「病み上がりの人」と発言
し、後日、鳥越から激しく抗議されて、
「もし言っていたならば、失礼なことを申し上げて恐縮です」
 と謝罪したそうだが、「もし言っていたならば」という言葉は、言葉
を遣う者として、その無責任が駄目だし、「選挙中の行き過ぎた発言だ
った」で済ませられるとする精神も駄目。
 人は、思っていないことは言葉にできない。
 その事実は自覚しておくべきだろう。
 それが引き起こす波紋については、だから、腹を括って引き受けるの
だ。