言葉が、創造する

 言葉は自分そのもの、と高らかに言い切った池田晶子の考えに初めて
出合った時、
「すごいなあ」
 と絶句したのは、さらっとこう言ってしまえる彼女の強さに圧倒され
たのと、もう一つ、彼女の考えに気持ちよく全面降伏されそうな自分を
自覚しつつ、けど、こう断じては可哀相な人達もいると思うと、彼女の
論は暴走だとも感じ、反撥も多かろう、なのに公言したんだ、とそんな
彼女の度胸に感服させられたのだ。彼女のために青ざめながら。
 彼女は「例外はない」とは言わなかったが、そう言っているのも同じ
こと。
 だが、断定できるということは、彼女は、普通に思い付く反論だけで
なく、とことん検証して、一つの例外もなく「言葉は人」、これは真理
だ、という地点に到達したのだろう。
 私の頭に反射的に浮かんだ反撥は、言葉に不自由な人達は、じゃあ、
どうなの、というものだった。
 言葉に難がある人は、じゃあ、人ではないのか。
 科学の世界では、宇宙の始まりを突き止めることに躍起になっている。
 ところで、いつかそれがつまびらかになった時、人は、じゃあ、宇宙
が始まる前はどうだったの、と知りたがるのではないか。というか、も
うすでにその思いはあるだろう。宇宙に始まりがあるなら、始まる前も
知りたい、と発想するのは人の自然だからだ。
 しかし、それを理由に、宇宙の始まりだけ解明したって無意味だ、と
気持ちが萎えるのは違うだろう。要はそういうことだ。
 生来的、機能的に言葉に不自由な人が存在するから、人は言葉を操る
生き物ではあるけれど、その意義について深く探求してはいけない、と
手を緩めるのは、違うのだ。
 こういう人達のことは、「人は、なぜ生きる」「生きるとは何か」と
いう、もう一段上の命題を考える際、すべての人間という括りの中で、
等質の一個人として対象にされればよいのである。
 例外に甘んじて、自分を甘やかすな。
 そういうことなのだ、と理解し直してみると、池田晶子の言葉は、実
に爽やかに私を挑発してくれるのだった。
「言葉は人間を支配する力をもつ」
「言葉には、万物を創造する力がある」
 今、私は人と話す時、その人の黒目それ自体をじっと見る癖がついて
いる。
 自閉症の黒田直樹が、人の目は笑わない、表情や動きは変化するのに、
と書いているのを読んで、あ、本当にそうだ、と気づかされて以来、彼
が見るように見ようとする私になってしまったのだ。
 彼の言葉に触発されて、新しい視点が私の中に出現したのだ。