「もう九時」の「もう」は

 つい先日まで、夜の七時を回っても明るかったが、今、その時刻には、
もう夜だ。
 昼間の空を見上げれば、秋の雲。
 相変わらず蒸し暑くても、ひたひたと次の季節が忍び寄っている。
 移ろう時は止められないんだなあ。
 ふと、心がしーんとする。
 さみしさ。
 あるいは、切なさ、やるせなさ、もどかしさ。
 ところで、人間などよりもっと季節や自然の変化に影響を受ける生き
物達の中に、同じ光景を見ているものがいたとしよう。
 蝉のように生き急がずともよくて、余裕を持って周りを見渡せる状況
にある生き物達だ。彼らもまた空を見上げ、空に浮かぶはけ雲や、その
空の透き通った青さに、きのうまでと違う何かを見たとしよう。
 その思いが、心に、もやっと広がるのは彼らも私も同じであっても、
私の方が彼らより幸せなはず。
 さみしい、切ない、やるせない・・・。
 心を表わす言葉を持っているから。
「ああ、さみしい」
 言葉で思うことで、もやっとして、つかみ所がなかった感覚が、確固
たる事象に為る。自分の気持ちをしっかり突き止められる。
 深い満足感。
 たとえば、色彩の「赤」。
「赤」という言葉が生まれた時、この世のあらゆる赤色が「赤」だと認
識されることになったが、この言葉が発明されるまで、人の世に「赤」
は存在しなかった。
「言葉には、万物を創造する力がある」とはそういうことだろう。
 しかし一方、「言葉は人間を支配する力をもつ」。
 知り合いの子が、食べ物を、
「まずい」
 と言うと、私は、
「おいしくない、でしょ」
 すかさず訂正。
 単に自分の口に合わないだけなのを、ましてや子供の未発達な味覚で、
「まずい」
 と言い切るのを許すと、その子は、ちょっとでも自分の舌に違和感が
あると、躊躇なく、「こんなの、まともな食べ物ではない」という範疇
に分類してゆくだろう。結果、非常に乏しい味覚の世界で生きることに
なる。
 というか、人の食べ物として存在する物を平気で「まずい」と言える
無神経は、子供でも看過できないのだが。
 同じことを言うのでも、どの言葉を遣うか。
 そこに、その人の心が顕われる。
 まさしく、
「正しい言葉を話す人は正しい人だし、くだらない言葉を話す人はくだ
らない人だ」
 である。
 ゆえに、自分の心を偽る言葉を遣って、良い人を気取る場合もあるだ
ろう。
 が、それ以前に、そもそも言葉の理解は自分と世間で完璧に同じと言
えるのか。
「もう九時です」
 なんの前置きもなく、この文章を言われたら、どう理解するのが一般
的だろう。