お天道さまか子供

 狩猟が趣味のベンツおじさんが、
「自分なら、人を殺したら、自分も死ぬ」
 と彼の孫に言った話を書いたら、二日後の八月二十九日に和歌山の建
築会社で発砲事件が起こって人が殺され、三十一日にはその容疑者が腹
を撃って自殺して、なんというタイミングなんだ、と驚いたことを今書
いている最中、「撃つ」の正しい漢字はこうだったと気づかされて、再
びなんというタイミングだ。前回、「打つ」と書いちゃったぜ、私。
 図らずも、自分の中に無いものは出てこない、ということがわかる好
例になった。
 ベンツおじさんは「これからは、銃は身を守るために必要」と言った
りもする。
 冗談であれ、そういうことを口にする彼を深く軽蔑。しかし、そうい
う考え方はいけないと言おうとして、アメリカを思い浮かべたりすると、
言葉が引っ込む。
 あの国では良くて、この国では駄目。
 たまたまこの国に所属するから、そこの方針に従うけれど、心の中で
はあの国の主義を信奉する、なんてことは起こり得るだろう。
 歯痒い。でも、そう思うのは、私の中に、こっちが正解、という思い
があるからだ。
 要は、このレベルの事に拘泥せず、一つしかない絶対善だけに目を向
ければ、心が清らかになるのだろうか。
 ところが、たとえば、「人に迷惑をかけない」。
 この考えに固執しすぎると、弱音を吐かない、虚栄を張る、自分は大
丈夫という顔をする・・・、それで心が疲れても、疲れる自分が甘いん
だと考えるかもしれないし、こわばった顔で自分自身に強要しているそ
のままを、他者にもせよ、と押しつけ始めたら、もう害悪である。
 この世に絶対的な「善」はないのか。
 だとしても、子供と一緒の時ぐらいは、大人は、心の中でくすぐった
くても理想的に振る舞ったらどうか、と前回書いたことを撤回する気に
ならない。
 なんでかなあと考えたら、やっぱり、先に生まれた者は、その任務と
して、あるべき理想を下の者に見せる必要があると思うからだ。
 自分は実行できていないことを、したり顔で諭しても、見透かされる。
 でも、ちょっとの背伸びなら、自分自身を律することになり、自分も
気分よくなるはず。
「誰も見ていなくても、お天道さまは見ている」
 自分より大きな存在に嘘はつけないとして自分を律する方法だが、こ
の考え方はせせら嗤う人でも、自分が下の者に範を見せねばと考えると、
格好良く振る舞おうとするのではないか、ということである。
 今より善き人間に。
 そのささやかな実践方法ということである。