大人の言葉

「親の顔が見たい」は、人生の含蓄や戒めが入って完結した一文になっ
ていないのに、ことわざだと早とちりしてしまった前回であるが、「親
の顔」を親戚まで広げていいと考えるようになったのは、ベンツおじさ
んの孫と話した会話に因る(よる)。
 ベンツおじさんは、小学生の孫に、自分なら、人を殺したら、自分も
死ぬ、というようなことを言ったらしい。別の日には、家から鉄砲を持
ってきて、その子の中学生の兄に向かい、
「今度そんなことをしたら、これで打って、じいじも死ぬから」
 と言ったそうな。
 人に銃口を向けるのは狩猟免許を持つ者でも違法だから、ただ銃を見
せただけなのだろうが、その行為により、ベンツおじさんは、言葉では
なく力や脅しで人をコントロールすることを肯定し、かつ推奨したこと
になるが、わかっているのか。
 幸い、小学生の孫は、
「人は、殺したらあかんやんなあ」
 ゲーム世代なのにまっとうな意見を言い、私も、
「死にたかったら、人を殺さんと、自分だけ死んだらええやん、ねえ」
 怒りを込めて応じる。
 親が離婚した女の子が、中学生の時、
「結婚しても、どうせ離婚するから、私は結婚せぇへん」
 と言ったことがある。
 母親は、別れた夫のことを悪く言ったことのない賢明な人なのに、娘
がそんなことを言ったので、ハッと息を呑んだ。
 この時は、私はただ黙って頷いた。
 人の気持ちはコロコロ変わる。
 中学生の頭で考えたことは、のちに変わるかもしれないし、自分がそ
んなことを、昔、口走ったことすら思い出せないかもしれない。でも、
今、彼女の言葉を真に受けて議論したら、その記憶が彼女の心に残る可
能性がある。私はそれは避けたかった。
 それに、彼女の言葉は、彼女が自分の頭で考えて出した答えだ。
 一方、ベンツおじさんの孫が語ったのは、ベンツおじさんの言動の単
なる再現報告。
 他にも会話はしただろうに、その子はその一件を私に語らずにいられ
なかった。それほど深く彼の心に刻まれたからだ。
 しかし、人としてまっとうな発想ではないから、その子の祖父を批難
することになっても、私は臆さない。
 が、暗澹とした気分になった。私ごとき外野が糺(ただ)したところ
で、一瞬のこと。子への影響力は、身内の比ではない。焼け石に水だ。
 人としてまっとうなこと。
 それだけでいいのにな。
 大人は、子供と一緒の時は、心の中でくすぐったく感じても、青信号
で手を挙げ、右見て左見て渡る、ぐらいの芸当をしてもいいのではない
か。