善き人間

 今より善き人間に----私は前回そう書いた。
 そんなことを書いた自分自身に妙な感じを受けている。
 面映ゆい、こそばがゆい、というのではない。照れはないから。
 無理して背伸びして書いてしまったなあ、と肩をすくめる感覚とも違
う。本当にそう思ったのだから。
 たぶん、そう思ってしまったことを素直に書いた自分自身に戸惑う気
持ち、というのが一番近いかもしれない。
 善いこと、正しいこと。真善美。
 その価値を心の底では認めているからこそ、口にしたくない。人と話
し合いたくない。
 そんなことを口にしたら、いつ、いかなる時も、その規範で私自身を
縛ることになる。聖人ではないのだ。それはまずかろう。
 こんな私は、だから、誰かが立派な発言をすると、それが口先だけか、
その人の精神と等身大かを見抜くことに躍起になった。人は、自分自身
を等身大より大きく格好良く見せたがるものだから。
 自分しかいなくても立派な精神を体現していれば本物だし、人が見て
いる時だけ立派な言動をするのであれば、にせ物。まあ、にせ物は、少
し一緒にいれば、言葉の端々から、にせの証拠がポロポロ出てくるんだ
けど。
 本物かにせ物かに比重を置いていた私。なのに、より善き人間を目指
そうとすればいい、みたいなことを書いてしまった。
 なぜか。
 直接的には、これまでの私の人間関係にあり得なかった、金はあるら
しいが、それだけのベンツおじさん、間接的には、彼の上をいく精神の
人達が起こす陰惨なニュースのせいで、我欲、感情のままに、自分が良
しとすれば「無理が通れば道理が引っ込む」を実践するのが正しい世の
中になったように見えて、暗澹たる気分になり、でも、人の正しい在り
方は、分厚い雲に隠され、失せたように思えても、常に変わらず、燦々
と輝いているはずだという思いを手放すことができなかったからだと思
う。
 十年以上前に話題になったらしい池田晶子を知ったことも大きかった。
 正しいことは、正しい。だが、自分にとってだけ正しい事を、正しい
とは言わない。誰にとっても正しい、すなわち普遍の正しさのみが、正
しいのである。
 こう言われて、誰が反論できよう。
 普遍的な人のまっとうとは、かくも心を清らにしてくれるのであった
か。
 自分勝手な自我が跋扈(ばっこ)する世の中にあって、人間であるこ
とを憂いたくなる気持ちにすらなる今、気恥ずかしいほどの当たり前を
目指そうとする姿勢だけでも充分尊い、と私は私自身に言い聞かせたく
なったのだろう。