「正しいことは、正しい」
と聞いて、強い味方を得た気分で勝者の笑顔になりかけたら、
「自分にとってだけ正しい事ではなくて、誰にとっても正しいことが、
論ずるに足る正しさ」
と言葉が続き、えっ、と笑顔が膠着。
理系、文系。
保守、野党。
陰、陽…。
こういうペアの片方が絶対的に正しいとならないことは明白だ。
金持ちか、否か。
子を産む、産まない。
裏切り、誠実。
賢い、賢くない・・・。
少し迷うが、人間、人類にとって、と考えると、これらも陰陽と同じ
レベルだなあと気がつく。
こうでなくてはいけない、と言うのは、こうであった方が私自身に心
地好いということで、個々人の好みのレベルの話になるのであったか。
で、このレベルのことで皆が自分の好みを押し通そうとするから、こ
の世は悶着が絶えないのであったか。
じゃあ、誰もが納得する正しさって、何。
私達は普通に「私」と言うけれど、その「私」は一体どこに見つかる、
死んだら取り出して見せられるのか、と池田晶子は問うた。
不妊治療の、精液の中から有効そうな精子が一つ選ばれ、卵子と受精
させるという人工の行為を考える時、もし選ばれたのが別の精子であっ
たなら、そこに宿る「私」は、違う「私」になったのか、と考えると、
いろいろ考えが湧くが、検証できない。
そして、生死。
「生きている」と私達は言うけれど、どこが生の始まりだったのか。
精子が卵子と受精した時点で「私」「私の生」が始まったと言うなら、
その時まで「私」はどこにいた。
だって、「ない」ものから「ある」は生じない、と池田は指摘する。
死も同じ。
私達は、死んだ人の死体は知っているが、そこに宿っていた「私」が
死んでどうなったのかは知らない。ましてや死がどういうものか、身を
もって体験していないので、生者は誰も本当のところはわかっていない。
「ある」ものは「あり続ける」。有は無にはならないし、無から有も生
じない。ならば、死んでも私はあり続ける、というのが理屈にあった考
え方。
生き物だけは無から有が生じる奇特な事例、なんてことはあり得ない。
ならば、死体になる時が来ても、死なないのではないか。生きていると
いう意味もよくわからないのであったし、私達は、生きても死んでも、
存在している。存在し続ける。肉体は私達ではないのだから、残るは精
神。それが人の本質。
私達は存在している。が、私達に生死はない。
こんな壮大なる正しさを前にしたら、何が言えよう。だが、心の背筋
はピンと伸びる。