今を善く生きる

 テレビで、犯罪捜査の副産物で、思わぬ不運に見舞われたイタリアの
家族の話を見た。
 犯罪捜査に協力してDNA検査を受けたら、初老の夫が、双子の子供
達と親子関係になく、残る一人も同様で、昔、妻が二人の異なる男性と
不倫して生まれた子供達だったのだろうと考えるしかない結果を突きつ
けられた。
 妻は、あなたの子供達だと言い張る。
 夫よ、どうする。
 夫は病死するまで結婚生活を続けたそうな。
 科学的証拠より、妻を信じることを選んだ。
 そんな夫の態度に、私は胸を打たれた。
 もちろん、ためらわずに離婚を選ぶ人もいるだろう。
 人はいろいろ。
 その差を作るのは、心。
 感情と理性の配分は人それぞれ。だから人間らしい、と言えるだろう。
そうでなければ、人として生きるおもしろみがない。心が揺れないロボ
ットになるのが人の未来の目標、なんてことになってしまうだろう。
 前回、「死んだら天国や極楽に行けるという発想では救われないこと
はわかっている」と書いた。
 が、死後の世界を否定しているのとは違う。
 死んだら無、とも思っていない。
 死後はあるだろう。
 ただ、天国とか極楽という説明では、私は説得されないなあ、という
だけだ。
 ところが、たまに極楽という発想を受け入れるのだから、いい加減な
ものである。
 --- 死んだら極楽に行くと思っていれば、楽に死ねる。でも、善い行
ないをしているかどうかわからないと、地獄に落ちる不安を持つかもし
れない。閻魔さんに審判を受ける時、褒められたことではない事もいろ
いろやったが、一つだけ、これだけはしっかりやり遂げました、と言え
るようにしておいたらどうか。そうすれば、人生の目的がはっきりする。
どう生きたらいいか、死ぬ時までに自分の人生をどういうものにしたい
かが見えやすくなる ---
 比叡山延暦寺の荒行、千日回峰行(ほうぎょう)を二回も満行した酒
井雄哉(ゆうさい)阿闍梨の言葉だ。
 素直に頷かされるのは、極楽があると信じさせようと躍起になってい
るからではない。一応あることにしたら、この世を自分なりにより善く
生きる心構えが見えてくる、と言っているだけ。極楽があると仮定した
ら、心が落ち着いて、正しく生きようとできるのなら、それでいいので
はないか。
 キリストも仏陀もあの世に言及しているかもしれないが、あの世のこ
とを思えば、それと対になっているこの世をどう生きればいいかが見え
てくる、とその方法を説いているのだ。
 死後は、今の生き方で変わる。
 この考え方に、私は救われる。