この世の縁

 先日、友達と鞍馬寺から貴船神社を巡った。
 貴船神社の本宮から奥宮に向かう時、人の家の駐車場の車に隠れるよ
うに自動販売機があるのを見つけて、友にそう告げた。彼女は、持って
いたのを飲み干し、買いたいと言っていたのだ。
 ところが、
「この先には、もうないかなあ」
 そう聞かれても。
 ある、と答えて、なくても、私は責任が取れない。
「どうかなあ」
 答えにならならないことを答えるしかない。もっとちゃんと答えられ
る質問をしてくれたら、と思うが、これが女子の会話だ。
 彼女は一本買った。私が彼女なら、やっぱり買っただろう。
 そういう気持ちが続いていたので、さらに歩くうちに、二つほど自動
販売機に遭遇して、思った。
 そうかあ、私は、先がわからない場合は早めに対処するんだな。
 自分発見である。
 自ら死を選ぶ人がいる。
 そうすることで今の辛さを終わらせることにしたのだろう。
 死後のことは今の私達の脳では解明できないが、生の始まりも解明で
きず、どちらも不明だから、どちらもないのかも、つまり、死んでも死
なないのかも、と思っておくのが現在の妥当だとすると、死んでも死な
ないのなら、次の生はもっと素晴らしいことになるんじゃないか、と期
待できる可能性は、ある。
 だから、軽々しく死んでもいいじゃん、と考える人がいたとしても、
それを理由に批難はできない。
 でも、先のことはわからないから、私は、そうじゃない場合もあると
いう可能性に目をつぶれないのだった。それに、何を基準に今より素晴
らしいと判断するのかもよくわからないし。
 ただ、魂に回帰性があるとしても、今のこの人生に回帰することは絶
対ない、という事実は忘れてなるまい。
 なぜかは知らねど、この時代に生まれ、こういう親の元に生まれ、こ
ういう人達と巡り合った・・・そういうことは二度と起こらない。一回
切り。まさしく一期一会だ。
 この人生に大満足だから、どうか永遠に続いて、と願う人にも終焉は
来る。
 さっさと終わってほしい、と願う人の願いも確実に叶う。
 だからこそ、今の中で最善を尽くすことが大切なんだろうな、と思う。
 自分が四歳の時に母親が統合失調症を発病したという漫画家の『わが
家の母はビョーキです』の中に、正気に戻った母と何回か繰り返した言
葉が「消えたいね」だと書いてあった。
 死にたい、とは違う。存在しない平安、だと。
 存在しないことはできない、と直感でわかるから、大半の人は、あが
きながらも、今の生を丁寧に生きるのではないか。