「今」以外はない

 知人が『嫌われる勇気』を読んでいると言った。だが、なかなか読み
進められないと。
 私は「え、なんで」と言いそうになったが、黙って頷いた。
 ピケティの『二十一世紀の資本』が話題になった時、とりあえず図書
館で借り、これはいつか時間ができた時にじっくり読もうと考えて、ほ
とんど読まずに返した私。
 もし、
「ピケティのあの本って面白いよね」
 と言う人に出会ったら、そう思いたくて読もうとするも挫折した私、
と意識させられ、心が屈託しただろう。
 私の心がそう動くなら、知人の心も同じように動くと類推して、彼女
を傷つけないためには無言が一番、と判断したのである。
 だが、彼女が、まだ途中までしか読んでいないけど、過去も未来もな
い、あるのは現在だけ、と書かれているので驚いた、と言うと、これに
は無言を貫けなくて、
「え」
 と私。
 そんなことも知らないんですか、という思いをあからさまに込めた。
 そして、説明開始。
 人は、過去にした事を、なぜ、あんな事をしてしまったんだろう、そ
して、しなかった事はなぜしなかったのかと、どちらにしても後悔する
のが好きだし、未来に関しては、まだ起こっていないのに悪い事、嫌な
事、怖ろしい事が起こると信じて、怯える。
 生きる上で一番大切なことを見失う。
 過去と未来に心を飛ばしてばかりで、今を生きない。
 生きるとは、今の一瞬一瞬、その積み重ねに過ぎないのに。
 今さら変えようがない過去を悔やみ、まだ来ぬ未来を不安がるのを
「考える」とは言わない。むしろ、考えるべきことを考えたくないから、
過去と未来に心を飛ばして逃げている、と言えるかもしれない。
 今この瞬間にすべき事に傾注する。
 のちのち軌道修正が必要になったなら、その時に、その時の最善の判
断をし、実行すればいいだけの話で、いつだって、今この瞬間しかない。
 ただし、過去も未来もなく今この瞬間のみ、という論理は仏教でも哲
学でも言っているし、普通の本でも目にすることがある。
 なのに今初めて知ったと知人が驚くので、私は驚かされた。
 だが、早く知っても、知識止まりになるなら、意味はなかろう。
 それに、私はこの考え方が心に沿うので馴染んでいるが、仏教が本当
にそう説いているのか、その源流の最初のひとしずくはどこにあるのか、
は見極めていない。
 真実だという前提で書いている著者達も、実は誰かからの受け売りだと
したら、そういう膨大なる孫引きの先っぽに私が位置したことになる。
 それで、絶対的自信。
 いいのか。