美が邪魔する時

 上司が優しいと感じていても、その上司が誰に対しても優しいという
保証はない。
 組織の中で自分自身の競争相手になるような相手には優しくなんかし
ていられないのだ。だが、たっぷり歳が離れて自分の脅威にならない若
者には、余裕で優しくもなれれば寛容にもなれる。
 鈴虫寺の説法で「美は邪魔しない」という言葉が私にとって衝撃的だ
ったのは、美は目立つし嫉妬されるのではないか、と思ったからだが、
誰もが手放しで見惚れるしかない超然たる美になればそうなるか、と理
屈で納得した。
 しかし、さらに考えを推し進めたら、自分には太刀打ちできない、完
敗である、と感じても尚、いやだからこそ、どす黒い嫉妬心が湧くこと
もある、と気がついた。
 諦めたら嫉妬心がなだめられる、とは限らないのだ。
 そういう時は、犬が尻尾を巻いて強者にすり寄るみたいな卑屈な精神
で無理矢理嫉妬心を抑え込んではいけない。どう足掻いても足元にも及
ばないのに、なぜ、かくも強き敵愾心、対抗意識が芽吹くのか、心の奥
を見つめて、そこに身を潜めている真の感情と向き合う。
 自分自身が一番気づきたくなかった心の弱さ、醜さを見極められたら、
そういう自分自身なんだ、と受け入れる。すると、もう、圧倒的な美も、
そんじょそこらの平凡な美も、すべては自分と無関係にただそこにある
美である、と眺める明鏡の境地になる。
「美は邪魔しない」
 を理解するのに、いかなる前提や条件も不要になるのだ。
 先日、とある施設の前に女性が立っていた。
 そこに紙を持った初老の男性が近づいてきたと思ったら、
「こんな地図で来れると思ってんのか」
 いきなり彼が吠えた。
 そして、
「馬鹿にしてんのか」
 と言葉を続ける。
 私も地図を読むのは下手だが、すんなり目的地に付けなくても馬鹿に
されたと思わないし、こんなわかりづらい地図が悪いのだ、とも思わな
い。
 だが、彼はそう反応した。
 普段から、何かにつけ人に馬鹿にされる自分である、と思っているか
ら、地図どおりに歩いたはずが道に迷ったことで、その劣等感が激しく
刺激されたのだろう。
「すみません」
 穏便さを優先して女性職員が頭を下げたが、彼の怒りは治まらなかっ
たはず。
 知り合いのベンツおじさんとほかの人達に紙を配った時、ベンツおじ
さんが、
「あ、ほった(放った)」
 と抗議の声をあげた。
 私は誰にも紙を手渡さなかったが、それぞれの前に滑るように置いた
のに、彼は、自分だけ邪険に扱われた、と受け止めたのだ。