人の言葉が気に触る時

 皆に紙を配っていた私が彼の前に紙を滑らせた途端、
「あ、ほった(放った)」
 知り合いの裕福ベンツおじさんが物申した。
「えー。放ってないよ」
 隣の人が呆れてたしなめてくれ、ベンツおじさんは黙り込んだ。
 私は、記憶の時間を少し巻き戻してみた。ベンツおじさんは、私がど
んな風に紙を渡すか、腕組みし、上目遣いでじっと待ち構えていたので
あったなあ。
 しかし、私は誰にも紙を手渡していなかったから、彼にも手渡さない、
と事前予測するのが公平さの点からも順当だろうに、彼は視野狭く、自
分だけは手渡されて当然、と信じた。そして、期待が裏切られると、ほ
うら、やっぱり、自分は邪険に扱われた、と不機嫌になった。
 ベンツおじさんは金持ちで、そういう自分が自慢だし、人に豪快に奢
って喜ばれると満足そうで、いいなあ、幸せなんだなあ、と普段は見え
ているのに。
 本当は自分は人からこう見られている、はず。
 自分は人からこう扱われて当然なんだ。
 そんな思い込みは、金の力でもどうすることもできないのか。
 もちろん、そう思い込むようになった最初の出来事は、彼がそう受け
止めても仕方がない印象的な出来事だったのだろう。怒りと悲しみが心
に渦巻き、自分の心は自分で護らねば、と武装し、その後は、同じよう
な状況が起こらないか、見張るようになった。
 この悔しさは赤色のせいだと信じた時から、いつ、どこでも赤、赤、
赤・・・と探し回り、赤色を見つけては喰ってかかるようなものである。
 許せないのだ。
 許せないのは、目の前の赤や、その赤色を持ってきた人ではないから、
喰ってかかられる人は、いいとばっちり。
 誰かの言動のおかげで、そんな心のからくりに気づけたら、ようやく、
自分自身はどうなのだろう、と自分の心に目を向けられることになる。
 自分の心は、自己防衛本能が働いて、なかなか見極められないかもし
れない。
 それでも、外界からの反応に心が無自覚、反射的にこう反応するので
私は心地好いか、と疑問を抱くことはできる。自分の心を不可侵のブラ
ックホールにしたままにしておくことも疑問に思えてくるだろう。
 だいたい、人はなぜ他人の気持ちがわかると言えるのか。あの人はこ
う考えている、とあの人でない自分自身が断定できるのか。
 自分ならこう感じる考える、というのを、そのまま相手に当てはめて
いるだけなのではないか。
 人に言われたくない言葉。
 それは、自分が自分自身に抱いていて、密かに恥じている思いである
ことは多い。