考えが、来ない

 人は、放っておいたら何かを考えるようにできている、というのは本
当だと思う。どうしても気にかかっていることがあれば、それについて
考えたくなくても考えることになるだろうし、何か集中して考えたいこ
とがあるなら、それについて積極的に深く考えるであろう。
 そのどちらでもない場合は、漫然とした思いが頭をよぎる。
 決して「無」になれない。
 だから、人は写経したり、刺繍やガーデニング、趣味のスポーツ、楽
器などに没頭したくなるのだろう。冬、スキー三昧だった頃の私は、ま
さしく、白いゲレンデを二本のスキーで滑り降りる時、無の境地になれ
た。
 もちろん、ゲレンデの進む方向を見て、あのあたりでターンしよう、
そのためには身体の動きは、板の操作はここではこうすべきだ、などと
一瞬一瞬判断しているから、厳密には、やっぱり考えている。気が抜け
ない。「無」ではない。
 でも、絶え間なく押し寄せては流れ去る淡い思考は遮断できている。
それがすこぶるすがすがしい。正しくは「無」ではないかもしれないけ
れど、「無の境地になれた」と感じる。ということは、私達が求める
「無」とはその程度なのだ、その程度で十分「無」と言える、というこ
とかもしれない。
 ところで、今、私はこうして書こうとしているのだから、「無の境地」
ではなく、さりとて脈絡なく来ては去る散漫なる思考に身を委ねるので
もなく、その散漫なる思考の中から、これ、というものを見つければい
いのである。
 散漫なる思考を形成するのは、見聞きした情報、新たに知った情報、
あるいは実際に生活している中で遭遇する光景。それらの何かに心が触
発されたら、私自身の考え方、思いが芽吹く。心が呟きたくなる。情報
は途切れないから呟きたくなることも途切れない、だから書くのは簡単、
のはずだったが、今日は書きたいことが思い浮かばない。
 降ってこない。
 私なんぞが「降ってくる」「降ってこない」などという言葉を使うこ
とになるとは思いもしなかったが、そうか、考えは降ってくるものだっ
たのか。
 いや、単に、私の心が鈍感になっているだけなのだろうか。
 鈍感、と言うより、今までより少し上の地点からこの世の事を見る視
点に立ったら、まあ、そういうこともあろうと、どれもすんなり受け入
れられてしまい、それ以上の感想を持てなくなった、と言えばいいだろ
うか。
 それは進歩なのか。
 私はずっとこのままになるのだろうか。
 ほどなく回復できるのか。
 不安だ。