私に見える景色

 自分が密かに思っていることを誰かがさらっと言ってくれたら、ああ、
同じように考えている人がいるんだ、少なくとも私一人だけの変な考え
ということではないんだ、と安堵できる。 
 私とまったく同じ景色を見られる人はいない、という事実は、たとえ
ば、その一つだ。
 こういうことは誰かとの気楽なお喋りの中で話題にするようなことで
はないから、口にしたことはないけれど、ついに本の中で、
「感覚というものを考えても、自分と同じように世界を見ている人は、
世の中に誰一人いないのではないかといつも思う」
 という文章に出くわして、嬉しかったなあ。
 もっとも、感覚、という前提で語られているので、人それぞれにその
時までに培ってきた感受性や考え方が違うから、同じものを見ても同じ
ように見えなくて当然、という以上の事までは言及しておらず、私がこ
の事実に恐れおののいてしまうのと同じ気持ちを共有してくれているわ
けではないかもしれない。その場合は、ぬか喜びだったことになる。
 誰かが私の真横にくっつくように立ったとしても、その人の目は、私
の目の位置にはない。だから、私が見る光景のそっくりそのままを、そ
の人は見ることができない。互いの目の位置がずれている分だけ、見え
る光景がずれる。
 それがどうした。
 物理的な観点からは、そう言い放てるだろう。
 あるいは、だからこそ、この世には私ししかいない、とか、私という
人間は唯一無二の存在だ、という方向に解釈を持っていくこともできる
だろう。
 だが、私はそのどちらの道に向かうよりも前に、その当たり前のこと
に慄然とし、不安が掻き立てられるのだった。
 というのは、そんなにも唯一無二の私の目なのに、私自身を見ること
ができない、という絶望を知るからだ。
 手は見える、足は見える。
 けど、まずは絶対に見たい私の顔は、私の目で直接見ることができな
い。私の背中も、お尻だって。
 私以外の人はいとも簡単に見ることができるのに。
 私にしか見えない光景がある一方、私には絶対に見えないものがある。
 その不思議がもどかしくて、理解できなくて、心があたふたしてくる。
 死とは何か。
 脳死や心肺停止と言うけれど、死の時まであった精神は、その時どう
なるのか。
 翻って、生はいつどこに始まるのか。
 わからないから私達は便宜的に生死と言うのだ、ということの方がす
んなり納得して、受け入れられるのに。
 雨は上がっても鈍い空の色だった今日。
 私の心に訪れた思い。