悟りたい

 自分の世界の美徳も語るが、短所も述べると、客観的な判断ができる
人だとして高評価を受けることがある。
 しかし、そんな計算尽くでなく、たまたまその人自身が変質して、自
分が属していた世界の短所を多く語るようになった、と評してよさそう
なスピリチュアリストをなぜ私が知っているかというと、たまたまその
人のブログを読んできたからだ。
 この宇宙の根源は、無。
 覚醒体験をしたというスピリチュアリストは、みなそう言うので、そ
れを真実だと受け入れてみると、仏教の「空」に通じるなあ、と思い至
る。
 この世は「空」。
 無。
「ある」「ない」が共存する世界における「ない」ではなく、「ある」
が存在しない一元世界。
 私はあなた、あなたは私。分離はない。
 そういう世界に生きていない私達は、真にはその世界を理解できない。
体験者が伝えてくれようとしても、言葉という不完全な道具に頼るしか
ないことが障害物となる。
 それに、体験者の場合も、その覚醒体験は一瞬で、再び、レベルの低
い日常生活にまみれて生きることになる。
 嫌悪と葛藤。
 果たして宇宙の根源に目覚めたことは幸せなことのか、と自問したく
なる。
 だって、究極は無。
 そうわかってもなお、明るい気分で毎日を生きることはできるのか。
 だから、悟りたいという人達に対し、巷のスピリチュアリストは、究
極よりずっと手前の、人の耳に媚びやすいことだけ語っている、と前出
のスピリチュアリストは身内批難する。
 たとえば、願えば叶う。
 もし自分の場合はそうだ、と言うスピリチュアリストがいたら、その
人の大切な誰かに不慮の死が訪れた時もそう言えるか、聞けばいい、と
挑発したり。
 そんな彼はスピリチュアルの世界から干されることになったようだが、
その挑発は、しかし、市井の人が素朴に思う疑問ではある。
 条件付きの「願えば叶う」でしかないなら、まともに取り合えなくて
当然だ。
 ちなみに、この宇宙の根源は非二元であり無であり完璧である、と体
験したスピリチュアリスト達は、さあ、みなでそこを目指そう、と提唱
するようだが、現実の世界は、むしろ、その反対に向かって加速してい
るように感じられる。
 なぜ、と考え、閃いた。  
 宇宙の根源は完璧で、完璧は退屈だ、と感じた覚醒者達は本質を理解
していたのではないか。
 完璧さに飽き飽きしてこの世が造られたとするなら、人類が理想的な
平和に近づこうとすればするほど、宇宙は、そうはさせじ、と動いてこ
そ道理だ、ということである。