輪廻するなら

 生まれたら死ぬ。
 誰もこの運命を逃れることはできない。
 私とて逃れる気はない。この現実を真っ向から受け止める覚悟はできて
いる。
 ただ、痛さや苦しさを長く堪えさせられることなく、息を吸って、次に
吐いた瞬間、あれ、私、死んじゃったのかなあ、という感じで呆気なく死
ねますように、というささやかな願いだけは持っている。
 しかし、これを、ささやかな願い、と言っていいのかどうか。
 突然の事故、もしくは病気でも血管が切れるとか詰まるみたいに手を施
す間もなく死亡する以外は、老化に伴う病気で徐々に衰弱する期間を堪え
なくては死ねないらしいことが、本やテレビを見聞きしていて、徐々にわ
かってきた。
 映画や小説で人が簡単に死んだように描かれるのは、全然現実的ではな
いのである。
 だから私は怯えるのだった。死に至るまで継続的に続く肉体的な痛みか
ら逃れられないのは嫌だ。
 あまりに強くそう思うからだろうか。輪廻について疑問が沸いた。
 今生(こんじょう)でやり残したことをがあるから輪廻するのだとして、
再び、この地球上の人間として輪廻する必要はあるのだろうか。
 長生きはめでたい、ということに異論はない。だが、人に依存せねば食
事も排泄も肉体維持もできない終末期に突入したら、輪廻の目的を遂行す
ることは不可能だ。
 生まれたばかりの赤子も同じ。
 人生において、最上級に他者に依存するしかない初めと終わりを除いた
のが、心身共に自立して活動できる成熟期になるが、意外に短期間だとわ
かるだろう。
 輪廻の目的を一番に考えるなら、生まれたら、即、自立して活動できる
のが合理的。
 関係する相手も一緒に、地球外の、人間以外に生まれれば、輪廻の目的
は達成できるだろう。
 それに、前世の記憶を忘れて生まれ変わってくるわけだから、ますます、
次の舞台は地球以外、別の生命体、であってかまわないことになる。
 その場合は、時間を、死の間際まで輪廻の目的に捧げるために、死ぬと
なったら、あっさり死ねそうではないか。
 もっとも、この人類の未来に、寝たきりになっても肉体的な痛みや苦し
みは感じずに済むような医療技術が標準的になる日が来るならば、人類と
して生まれ変わる輪廻思想を受け入れられるだろう。
 なんとも身勝手な私。
 それでも、産道内での苦しさは綺麗さっぱり忘れ去って生きている今、
残るは死の不安であり、死に向かう時の肉体的苦しみと痛みを怖れる私は、
必然的にかような妄想をせずにはいられないのであった。