生きる価値

 今日も朝から爽やかな陽気で、おまけに土曜日。
 体の中からむくむくと「ちゃんとしたい」という気持ちが芽生えてき
た。
「ちゃんとする」とは、冬の下着や服では季節に合わない、と予想され
るので、朝、慌ただしく着たい物だけを引っ張り出してきて間に合わせ
る、といういい加減さと決別する、ということである。
 タンスの引き出しの中を入れ替える衣替えは、今日までに済ませた。
 けれども、冬物衣料は、来シーズンまで出さないから、たっぷりのお
日様にさらしておきたいし、今シーズンのも、長く引き出しの中にあっ
て湿気ている、と思うと、やっぱり日干ししたい。
 ダウンジャケットの手洗いは、バスタブを洗ったあと、その中でする
つもり。
 それらに、朝から着手。
 内なる声にせき立てられ、今日する気じゃなかったのに、することに
なった。
 日干しするのはまだ残っているが、昼までで今日の分を終わりにし、
昼食後、コーヒーを飲みつつパソコンに向かったら、異様な眠気に襲わ
れ、パソコンの電源を落とした。
 コーヒーを飲み、横にならずに二十分ほど昼寝すると、目が覚めてす
ぐに頭がすっきりという情報が正しいとしたら、なんで今も頭がぼんや
りしているんだろう。二十分ほどで目が覚めかけて、また眠ったのがい
けなかったのかなあ。
 買い物に行き、戻ってきたら、夕方五時で、何もしていない、今日は
何もしなかった、という気持ちになる。
 ちゃんと食べたし、飲んだし、衣替えもしたし、「生きる」ための行
為はちゃんとして、だから、今もこうして生きている。
 なのに「何もしていない」と思ってしまう。
 高齢で寝たきり、あるいは長期入院になり、回復の見込みがない人達
は、毎日、どう思って生きているのだろう。
 今日の私などより、もっと強力に「何もしていない」と思う日々を送
っているのだろうか、と想像すると、あ、それは違うな、と気がつく。
 というのは、こういう話になると、必ず、
「自分は、そんな状態になってまで生きていたくない」
 と言う人が現われるが、そういう意見を聞いた時も、あ、それは違う、
というか、絶対に違う、と確信できるからだ。
 なぜって、実際にそういう状況になっている人達の誰一人として、
「もう生きていたくない」
 と言わないらしいところに、その当事者になった時の思いが読み取れ
ると思うのだ。
 どんなに無為に見えようとも、「何もしていない」とは思わないらし
い、ということだ。