生きる価値 2

「私は幸せではない。私は死にたい」
 そう訴えたのは、四月四日に百四歳を迎えたオーストラリアの科学者、
デイビッド・グッドール。
 転倒して入院しても、自分の足で歩けるし、パソコンも使いこなす。
頭脳も明晰。
 だが、健康状態がさらに悪化すればさらに不幸になる、と予測して、
スイスで安楽死できるよう渡航費の募金を募り、百四十万円ほど集まっ
たとか。
 私は前回、「もう生きていたくない」と言う人は誰もいないらしい、
と書いた。「らしい」という言葉のおかげで、グッドールは特殊な例外、
と突っぱねることもできるが、そう遠くない未来に死があることを実感
して、それでも日々、懸命に生きている寝たきり老人達のことを私は言
ったのであった。今、グッドールのことを知っても、そういう状況にあ
る老人達は、本能的に「死にたくない」と思うはず、という考えを手放
すことができない。
 もうこれ以上は、と思ったら、彼らは言うだろう。
「もう楽にしてください」
 痛みを取り去ってほしい。決して死を望んでいるのではない。
 なのに、痛みからの解放が死と直結する残酷さ。
 そんな事態に堪える力はない、と思うなら、グッドール同様、理性と、
そこそこの健康があるうちに積極的に死を選ぶ、というのが一つの解決
策となる。
 ところで、寝たきりで回復不能とわかっている老人達についてである。
 その状態で生きている価値は、あるやなしや。
 本人ではなく、本人以外の人達がどう見るか。
 私は、ただ生きているだけで素晴らしい、と考える。
 私自身、一日が終わって、
「ああ、今日は特に何もしなかったなあ」
 と思うことも多いからだ。
 毎日ではないから同列に扱えない、と慰められるとしたら、不登校
鬱病などで引きこもっている人達のことを私は思い浮かべる。
 今はたまたま、死の道にある老人達と同列に見えるかもしれなくても、
心身の健康を取り戻したら、自立して生きる人に戻れるから、やっぱり
別枠、と言うだろうか。
 とすると、刻一刻、肉体的な痛みと闘い、ようやく一日を終えるよう
な過酷な生を生きていても、年寄りというだけで「何もしていない」と
批難して良し、とする立場を取ることになる。
 自分もいつかはそうなるのに。
 あ。
 潜在意識はちゃんと理解していて、その時が来るのが怖くて、怖すぎ
て、まだ違う、と納得するために、残業本望、過労死不運、という方向
に自分を駆り立てる人もいるかも、と閃いたが、どうだろう。