言葉の宿命

 全米オープンテニスの優勝以降、大坂なおみの話題をよく目にするよ
うになった。
 しかし、新聞で、優勝セレモニーの壇上で、目深にかぶったキャップ
の下から一筋の涙が伝う大坂の写真を見て、仰天。事実の説明がないか
ら、知らない人は、ああ、優勝した歓喜の涙なんだ、と誤解しただろう。
 別の日は、優勝後の多くの祝福メッセージの中で一番嬉しかったのは
錦織圭からのメールだった、という文章。
 動画で見た帰国後の会見で、確かに彼女はそう答えていた。だが、質
問に困惑し、しばし考えたのち選んだ答えだったのに、そういう空気感
は記事からこぼれ落ちている。
 お堅くない雑誌は、もっと意図して私的な話題を偏重した記事に仕上
げている。
 会見の席で、そのパールのイヤリングは「思い入れのある品か」と聞
かれ、そうだと大坂は答えたが、聞かれるまで、そういう発想で考えた
ことはなかった、という表情を見せるも、記事では、よくぞ聞いてくれ
ました、そうなんですよ、と答えたように読める。
 自分の発言が記事になる人達が、記事を読み、なんか不本意な気分に
なる理由がわかった気がした。
 完璧に間違ってはいないけれど、仕方なく、取材者のために絞り出し
た答えが、まるで自分が積極的にそう言いたくて語ったかのように書か
れる。答えの一部分だけ切り取られて、これでは真意と違うように受け
止められかねない。
 しかし、こういうことは、無名の私達でも日常茶飯事かも。
 誰それさんがああ言った、こうした、だから私はこう思った、と話す
と、相手は、それを聞いて、意見を述べる。語られた言葉は正しいとい
う前提に立って。
 だが、どんなに正確、中立に語ろうとしても、人には心というフィル
ターがあり、事実を無色透明に見ることができない。中立に語ることは
できない。
 そこに、各人の使用語彙、という問題がかぶさってくる。
 あるいは、これは些末なことだから言わなくても、と口にしなかった
ことが、もし、それも聞かされていたら相手は意見が変わったかもしれ
ない、ということもあるだろう。
 不完全すぎる言葉。
 ところで、大坂の会見時の質問はどれもこれも低級で苛立たされたが、
この時の大坂の言葉が織り込まれた記事を読むと、よくこんな個人的な
ことまで聞き出せたものだ、と感心させられそうになる我が心の動きを
感じて、戸惑わされている。
 取材陣は皆、一致団結して、このレベルのネタ収集に一直線だったの
か。