言葉は歯痒い

 打ち合わせで、その人が、コレコレの場合は、
「もう一枚白紙を渡してあげてください」
 と言った。
「必要な箇所にマーカーを引て渡すのもいいですね」
 皆の頭の中が疑問符で埋まる。
 でも、話を聞いていれば、そのうち、その人が言わんとする「白紙」の正
体がわかるかも。
 果たして、その人は、最初に渡す紙には各自が書き込みをするだろうから、
それとは別にもう一枚コピーして渡すといい、と言いたいらしいことがわか
ってきた。
 新たにコピーする用紙には書き込みがないから、「白紙」。
 白紙をそう定義するとは、なんと大胆。
 でも、
「ああ、これが言葉なんだ」
 と私は再認識させられたのだった。
 私達は、自分の言うことを、過たず(あやまたず)相手に理解してほしい
と思って言葉を使う。
 ところが、この「白紙」もそうだが、
「うちのおとうさんが」
 と五十を過ぎた人が言うので、高齢の父親の話になるんだと思ったら、自
分の夫のことだったり。
 ならば、写真や動画の方が正確かと言うと、
「林檎」
 を概念として思い浮かべてもらいたい時に写真や動画だと、「表面にこう
いう傷がついている、この世に唯一無二の林檎」を伝えたいのだと思われか
ねず、よろしくない。
 言葉の問題は、自分が言葉に託す思いと、それを受け取る相手の受け止め
方が、ぴったり重なるとは限らないことだ。
 昔、アメリカの公衆トイレは防犯のために扉の下の方が十センチほど開い
ていると聞いたか読んだ時、私は、日本の公衆トイレを思い浮かべ、百パー
セント洋式にはなっていないので、和式トイレを思い浮かべて、
「いやん、困る」
 と思ったのだった。
 言葉は、寸分違わず同じ意味で伝達できると思わない方がいいのかもしれ
ない。
 それでも、自分の言葉が少しでも正確に相手に伝わってほしいと願うと、
どうなるか。
 私は、微に入り細に入り言葉を尽くして説明しようとしてしまった。
 久しぶりに会った友達とお喋りした時のことだ。
「ごめん、菊さん。余分なことはいいから、本当に言いたいことだけを話し
てくれない」
 と言われた。
 その前に、別の友達に、
「テレビを動かす」
 と私が言い、
「テレビは動かせない」
 と友が応じ、私が「小型」と付け加えなかったために、しばし話が噛み合
わなくなったことがあったものだから、余計に私は詳細な説明に心血を注い
でしまったのだった。
 言葉で思いを伝えたい。
 でも、言葉に疲れる。
 そういう時は、管弦楽や絵画鑑賞。
 いっとき言葉から離れ、そしてまた、言葉に戻ってくる。