記憶の依代(よりしろ)

 よりしろ。
 漢字では依り代とか、依代、憑り代、憑代。
 五木寛之の『捨てない生きかた』を読んだ。
 その中で、彼は、モノは記憶を呼び覚ます装置で、ゆえに依代だと書いて
いる。
 モノはない方が空間が広々として快適でしょ、快適なはずでしょ、と言わ
れたら、反論できない。断捨離を始める。
 ところが、今すぐ何かを捨てなければ足の踏み場もなくて生活に困るとい
うことはないので、捨てるモノを見極める目が甘くなる。
 そんな私に活を入れてくれるのは、家の中を断捨離したいがうまくできな
い一家が成功するまでを追うテレビ番組だ。
 見るとはなく見ることで、毎回、活を入れてもらう。
 おかげで、かなり進展した。
 過去にもらった年賀状は、その人からもらったこの年のは捨てるけど、そ
の年のは置いておく、という取捨選択もした。
 あとで見返したいか、その必要はありそうか、が決め手である。
 手紙の断捨離にも着手。
 と、フランス人からの手紙が出てきた。
 彼は当時日本語を勉強していて、フランスから帰国した私宛てに日本の原
稿用紙に縦書きで手紙を書いてきて、私からも日本語で返信し、しばらく文
通が続いた。すっかり忘れていたけれど、彼からの封筒を見て、当時のこと
が蘇ってきた。
 見なけりゃ彼のことは忘却の彼方。
 ならば、彼の手紙は捨てればいいのか。
 悩む。
 手紙を見なければ彼のことを思い出さなかったということは、私の人生に
もう必要ない人ということだから、彼からの手紙は捨てればいい。
 こういう考え方を基準にすると、なんでもかんでもバッサバッサ捨てられ
る。
 けれども、私達が何で作られているかというと、記憶であろう。
 記憶が、私の歴史なのだ。
 普段は過去を振り返る必要はなくても、ふと寂しくなった時などに、モノ
を見、手で触れて、当時の風景や自分自身の物語を思い出せたら、生きる気
力が戻ってきたりするのではないか。
 モノに頼らなくても、脳に記憶は保存されている。
 そうだろうけど、モノを見た方が手っ取り早い。それに確実だ。
 だから、捨てちゃ駄目。
 捨てすぎたら、心が空虚になるよ。
 そう説いてくれた『捨てない生きかた』。
 しかも、モノは依代というのは、個人だけでなく、時代や民族の記憶にも
繋がる考え方で、現物のモノを捨てて映像で記憶が継承できると思ったら大
間違い、という指摘にはハッとさせられた。
 確かに、私は、観光目的なら、その国の歴史を肌で感じられる古い街並み
を歩きたい。