過ぎたるは及ばざるがごとし

 夕方七時前でも外はまだ仄明るくて、まごついた。
 冬のあいだは日が落ちたらすぐに漆黒の闇になっていたからなあ。
 新しい変化にまだ慣れていないのか。
 しかし、花や虫はちゃんと季節に順応。
 二十四節気啓蟄(けいちつ)は土から虫が這い出てくる日と言われ、今
年は三月六日だったが、その頃から網戸に止まる虫や植木鉢の周辺をうろつ
く虫を見かけるようになった。花が咲き出した証拠でもある。
 今日は雨が降り、街のソメイヨシノは最終章。
 一方、私の桜の盆栽は今が見頃。
 厳密には、持っているうちの二つが満開。
 去年買ったのは正月に少し咲いたのがその桜の開花シーズンだったようで、
今は葉桜。
 それを買ったのと同じ店で今年新たに買った一つと、他の店で買った、も
っと大きい鉢のが咲き誇っているのだ。
 この二つを見比べて、気づかされたことがある。
 大きい方は枝が四倍ほども長く、花芽も数え切れないほどたくさんなのに
値段が安かった。私は、鉢が安価なプラスチック製だからだと思っていた。
そういう鉢を使うことで値段を抑えたのだと。
 ところが、この桜が咲くと、花の多さを、多すぎる、と感じる自分自身を
発見した。
 多すぎて、小さい盆栽より見劣りがする。
 おかしくないか。
 と言うか、そう感じるなんて、普通に考えたら、おかしいだろう。
 でも、大きく育ちすぎると大味になり安値が付けられる魚のようなものと
考えればいいかもしれない。
 花が咲くまでは、金さえ出せばここまで育った桜の盆栽が手に入るなんて
背徳、みたいな後ろめたい気持ちでいたのが嘘のよう。
 過ぎたるは及ばざるがごとし、とはよく言ったものだ。
 だが、私の桜の盆栽は三つではない。
 小さい盆栽を買った店で、私が買ったのと同じ時から出ていた一つが、今
にも枯れそうな二輪しか花が残っていない状態になり、税抜き五百円という
捨て値になると、鉢が陶器なので、それに桜が付いてきたと見ればいいかと
思い、引き取ったのだ。
 NHKの朝の連続ドラマ『らんまん』で描かれる牧野富太郎も植物の観察
が好きだったようだが、私の場合は、自分が育てるのを日々観察するのが楽
しい、という植物との付き合い方。
 とは言え、桜の盆栽が四つは多すぎるだろう。
 私の心の精神安定剤だとしても。
 あ、このところの花の増殖は、本当に、私の精神がそれなしでは安定しな
い状況に陥っているからかも。
 だって、先日は、ラベンダーを色違いで二つ買った。
 寂しい冬の友シクラメンは、この冬、三つも買ったし。