私のブルターニュ滞在中、マダムDが私に対して母親面(づら)した
のは、計二回。
彼女が、私の友人知人が口を挟めないほど一人で話しまくった回数と
比べると圧倒的に少ないが、悪質さは、たった一回でも多すぎるぐらい。
マダムDは私の友人だが、ほかの人達もまた、私の友人である。
この人の方があの人より心の距離が近い、ということはあるけれど、
その場に一緒に居合わせたら、どの人とも等距離で繋がりたい。
八方美人の発想かなあ。
でも、そうありたい私。
しかし、マダムDは言った。
「まあ、あなたが大声で笑うなんて」
それを聞いたら、そう言えるほどマダムDは私と親密なのだと、誰だ
って思うだろう。
おまけに、彼女は、
「でも、せっかくだから、この機会に思う存分笑いなさい」
と駄目押しまでした。
私は、いつからあなたの許可を得ないといけない立場になったのでし
ょう。
だいたい、許す、許さないって、何。
支配じゃん。
なぜ「支配」したがる。
「依存」したいから。
この私があなたのために言うのだから、ちゃんと聞くのよ。私の言う
とおりにしてくれたら私も満足。私の心の安定のためにも、あなたは常
に私の言うことを聞く良い子でいるように。翼を広げて、あの広い大空
へ飛んでいきたいなんて考えちゃ駄目よ。
えっ。どうしてもそうするですって。
私が悲しんでも?
あなたは絶対罪悪感に苦しむわよ。それでもいいの・・・。
なんか、子離れできない母親の心境に分け入ってしまったが、マダム
Dの言葉には、これに類する匂いがかぎ取れた。
人は、一人では生きられない。
不特定多数に囲まれているだけでも不十分で、誰か特定の人と親密な
関係が結べて、初めて私達は精神が安定する。
そういう繋がりを求めるのは、人の本能。
でも、実現しようとする時、無意識にまかせていると、どうして「支
配」と「依存」の関係で落ち着く方向に向かいがちになるのだろう。
一番安定感がいいから?
対等な関係より安定性がある?
そうかも。
ブルターニュで友人知人に大事にされてリラックスする私と違い、マ
ダムDには私以外は初対面の人ばかり。彼女は次第に不安になり、依存
と支配の関係性で私との友情を確認したくなったのではないか。
そして、不安は淋しさを増長するから、モンサンミシェル行きを誘わ
れて「行かない」と断った舌の根も乾かぬ翌朝、「早く起きられたから
一緒に行きます。迎えに来て」と私にメールを送って来るようなことに
もなったのだろう。