決め手は、覚悟にあった

 アナタには、私に説明するほんのちょっとの時間もないのでしょう。
 けど、理由もわからないまま放っておかれたら、私は悪い事態を予想
して、不安の海で溺れそう。
 大抵はそうなる前に救い出してもらえるから、「不安」は一瞬にして
雲散霧消。
 しかし、安堵の気持ちは「怒り」となって猛り狂う・・・。
 この場合の「アナタ」は誰でもいい。
 こういう状況になると、私の反応は決まってこうなる、という法則だ
から。
 勝手に妄想して勝手に腹を立てる私は、
「自分勝手かなあ」
 と反省することもあるが、ワンパターンな反応は止まらない。
 だが、もう卒業したいと思った。
 それには、ワンパターンな反応を開始させるプログラムを見つけ、解
除する必要がある。
「不安」を掻き立てる「恐怖」がそれだな、と私は探り当てた。
 学生時代に何かで読んだ。
 たとえば、
「そんな所に置いたら、落ちるよ」
 と忠告するのは、親切心からの言葉のように聞こえても、言っている
本人は、
「落ちろよ、落ちろ〜」
 と念じていることになる、という心理分析だ。
「本当だわ」
 感激した私は、母がこの手の表現をするたび、
「そうなったらいいと思っているわけね」
 ピシャリと言って、理不尽な脅しを跳ね返した。
 ああ、気分爽快。
 だって、母は、忠告しなければ悪い結果になると信じ切っている。
 怖れだ。
 私を信用していないから、怖れている。
 人は、信用されていないと感じたら、じゃあ、あなたの思うとおりの
行動をしてあげる、という態度に出るものなのに。
「早く宿題をしなさい」
 確かめもせずに決めつけられた子供は、次からは自発的に宿題するの
を止めて、親が望むように振る舞うであろう。
 相手を信用していて忠告する時は、もっと違う表現方法になる。
 そんなわけで、相手のことを心配しているというのは表層の、善人ぶ
った私の顔で、実は「恐怖」が私の心を操り、私に無用な心配をさせる
のだとわかった。
 と言うことは、あれっ・・・。
 嫌な想像に歯止めがかからないのは、それだけ相手を信用していない
ってことじゃん。
 どうしましょ。
 簡単なことだ。
 相手を信頼する。
 具体的には、やがて相手から伝えられるであろう事実が、相手に気の
毒な事であっても、また、そこから私に波及してくるのが私の心を波立
たせる事であっても、全力で受け止める気構えでいるということ。
 その覚悟さえ決まれば、怖れは消えよう。
 かくして、私は、不毛な妄想に走りたがる心を制御できるようになっ
た。
 まだ完璧とは言えないけれど。