自分がわかれば、他人がわかる

 外部のこういう刺激に、私の心はこう動き、こういう言動となる。
 考えるまでもなく、機械的に。
 しかし、考えるまでもないほど正しいのだろうか、と私は疑問を持っ
た。
「自分の無意識の反応に気づけば、勘違いに気づいて、軌道修正できる
し、もっと幸せになれる」
 と「反応」という言葉で気づきを促す人達が現われるより、もっと前。
雑誌でさる人のインタビュー記事を読んだのがきっかけだ。
「さる人」は賞を取り、今や文化人の仲間入りだが、仕事としての作品
群を私は評価しないので、名前は書きたくない。
 ただ、その人の個人的な意見が私の人生に有用だと感じたら、それま
でも「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」精神で拒否するような偏狭さは私に
はなく、それどころか、ちゃっかり我が血肉とさせてもらって平気なの
だ。
 で、その人曰く、
「私は、自分のことを考えているだけで延々と一人の時間を楽しめる」
 なるほどね。
 自分を他人のように観察したっていいよね。
 正しく人間観察できる対象として、これ以上の素材はないし。
 だって、
「なぜ、今、私はイラッとしたのか」
 の正解は、自分自身が一番わかる。
 その正解が気に喰わなくても、とぼけてごまかす必要もない。
 清らかでない心根を自分の中に見い出すことを、舌なめずりして待ち
構えられる私だから、いそいそ楽しめたのかもしれないけれど。
 聖人君子なんて、この世に存在しない。
 そんな達観、あるいは諦念がもともと私にはあったのだ。
 近年、進歩めざましき脳科学によると、人の脳は本人がもっとも得す
るように振る舞うそうな。
 人間関係の駆け引きの中で、あえて欲張らない選択をすると、
「謙虚な人」
 と見られる。
 だが、この段階で自分が一番得をすると、次回以降、足を引っ張られ
て大損するリスクが高まるので、それなら、この程度で妥協しておいた
方が自分のためになる、と本人の脳が損得勘定をはじいた結果の行為に
すぎないというのだ。
 すべての人の脳がそうだと、科学が、身も蓋もなくあばいてくれて、
嬉しいなあ。
 自分の中のずるさや醜さと出くわしても、自己嫌悪に陥ったりせず、
「それはそれで仕方ないけど、じゃあ、そう動いてしまう心を、私は、
今後どうしたい」
 と、心をコントロールする方向に進んでゆけるから。
 ところで、自分の心を正しく解析できるようになると、なぜか、人の
心も正しく読み解けるようになるのだった。
 ま、ゾウリムシはお手上げでも、同じ人間が相手なら、驚くことでは
ないかな。