なぜ怒鳴る

 育児休暇中の友の家を訊ねる。
 私が来るというので彼女のおかあさんもちょっと立ち寄ってくれる。
 友から、生後四ヶ月の息子が絶え間なくピーピー泣く、と聞いてはい
たが、ほんと、これでもか、というほど泣き倒す。
「この世はつらいことが多いからねえ。今のうちに泣いとくのよねぇ」
 私はその子を抱いてあやしつつ語りかけるが、もちろん、通じるわけ
はない。
 布団に仰向けにおかれても、泣き続ける子。
 友と、友の母親は、とろけるような甘い笑顔で、その子のご機嫌取り
に集中。
 その光景を見ていると、もし私がその子の父親だったら、という想像
の扉が開いた。
 なんとなく面白くないかも。
 嫉妬である。
 息子は王子様のように扱われ、その間、捨て置かれる自分。心が、気
に喰わない、と暴れるのだ。
 ただし、精神が成熟した夫であれば、女たちの様子は家族の幸せの象
徴と見えるであろう。
 大人の精神かどうかが分かれ目ってこと。
 客観的に見て張り合うような相手ではない相手に焼き餅を焼き、嫉妬
し、それがねじれて意地悪やいじめをしたくなるのは、その大元に、自
分はまだ十分もらっていない、というひがみや妬みや恨みがあることが
多い。
 必要なだけもらっていない、と信ずるは愛情。
 すると、たとえば、怒りの人になったりする。
 怒りと愛情とはなんの関係もないと思えるかもしれないが、まず、怒
りはコントロールできる、という事実がある。
 誰かを怒鳴りつけているさなかに電話がかかってきたら、すぐさま怒
りを治めて愛想よい声で応対するであろう。そして、電話が終わった途
端、怒りを再開。よくあることだが、ここにこそ、怒りは出し入れでき
る、怒りは自分でコントロールできる証拠が見つかるわけだ。
 怒鳴る人は、怒鳴りたいから怒鳴る。
 そんな人に「怒鳴らない方が気持ちは伝わる」と正論を言って、怒鳴
ることをやめさせられるのか。
 だが、この手の正論訓示が相も変わらず最上の手立てと見なされてい
るらしい。まだ改定案だが、三年後に特別の教科に格上げされる小学校
の道徳の新学習指導要領に、たとえば「誰に対しても公正、公平な態度
で接する」というのがあったりするのだから。
 人は、公正を目指したいのに、不正を働く。いじめは悪いとわかって
いても、いじめる。誰も皆、その可能性を秘めている。それが人間。
なぜ。
 あ、そういえば・・・と自分の心の中を見つめて話し合えば、よっぽ
ど実り多き授業になると思うのだが。
 でも、そういう授業は無理なのかも。