「愛された記憶」が見つからない時は

 悲惨な事件の中でも、幼い子供が親から殺される事件は特につらい。
親以外の大人を頼る、という知恵が付く前に、子が親から殺されてしま
うからだ。
 もっとも、世間の大人を頼ったが家族に押し戻され、結局殺される子
供はいるし、反対に、少し大きくなってから、他者に助けを求める代わ
りに虐待者たる親を自らの手であやめる場合もあり、家族とはかくも特
殊な閉じた輪、と言えそうだ。
 愛されている、愛されていない、大切にされている、大切にされてい
ない、という実感が育つのもこの輪の中。
 よって、こういう事件を知ると軽々しく言えない気持ちになるが、そ
れでも、どんなに過酷な過去でも、それを生き延びられたのなら、これ
までに自分が受けた愛と、受けた憎しみを天秤にかけると、わずか一ミ
リでも愛が憎しみに勝っていたと言えると思う。
 この世の一人一人が、与えられた愛の結果。
 食料になってくれる野菜や生き物、太陽、空気なども、私達への愛。
 でも、そういう繊細な愛に思い至るためには、まず、人からの愛を納
得できないと駄目みたい。
 私に「ああ、そういうことか」と強烈なる天啓を与えてくれたのは友
人の子供達だ。
 未婚で子供がいない私。
 友の家で、畳の上に座っていると、子供が当然の権利のように私の膝
に乗ってくる。
 えっ・・・。
 並んで歩くと、当然のように私の手を探す。
 ぎょっ・・・。
 手を繋ぐって、好きな人と手を繋ぎたい、けど嫌がられるかなあ、な
どと悶々と悩んだ末に成立する一大事のはずじゃないの。
 子供達はなんて厚かましい。そして、なんて素直なんだ。
 愛がほしいから、ちょうだい、と圧倒的単純さを突きつけられて、私
の中から優しさが溢れ出す。
 これまた、思いがけない感覚である。
 なんにせよ、幼い彼らが皆こういう行動をすることから、幼き日の私
も同じだった、愛を求め、愛をしっかり与えてもらっていた、と私は腹
の底から納得できた。
 愛がなければ、今、私はこの世に存在しないのだから。
 もらった愛を思い出せないだけ。
 よく、子供は嫌いだったが、自分に子供ができたら可愛く思えるよう
になったと聞くことがあるが、確率は半々だとすると、自分の子供でも
やっぱり可愛く思えない、となる危険性を孕んだ意見ということになる。
 なので、自分の子を持つ前に、他人の子供を見ることで、自分が与え
られた愛を確認できたらいいかも。
「ずるい」とか「妬ましい」という負の感情に苦しんでいる人なら、抜
け出すきっかけになるかも。