相談する人

 愚痴を言わないかと友に聞かれて、言わないと答えた、と前回書いた
が、私とて、それに似たことを言わないわけではない。が、愚痴だと判
断していなかった。
 愚痴と、そうでないものを分かつのは、何。
 幾人かの友の事例で考えてみた。
 愚痴や悩みを瞬時に解決する劇薬があっても、それはほしくない、と
いう深層心理の人は、
「しょうがない」
 という言葉を頻繁に使う気がする。
 一方、なんとかしたい、と本気の人は、ぼやく口調に苛立ちがある。
そういう人からは愚痴ではなく相談されているという印象を受ける。も
ちろん、現状を変える、とは、今を否定する事に通じるから、そういう
人も、しばらくは同じ悩みを繰り返し言い募ることになる。でも、聞く
耳を持っている、変わりたがっているのが伝わってくるから、こちらと
しても真剣に話を聞き、相談に乗りたいという気持ちが掻き立てられる。
「夫のケータイを見たいという友達の気持ちがよくわかる」
 ある友が言った。
 先週の土曜日のことだ。
 夫の女性問題を見張るというような目的ではないので、私は言った。
「別に見たらいいヤン」
 受話器の向こうで友が息を呑んだ。
 私はにんまり。
 この世の常識やら正論やら自分自身のちっぽけなプライドで、これだ
けは駄目、と自分自身に戒め、そのせいで不必要に事を面倒にしている
場合は、その正反対の方法もありだよと伝えるのは、固く握り締めて、
ほどけなくなっている手を緩めてあげられる場合がある。考えも、緩ま
る。そして、それが本当の原因や解決策ではなかった、と気づくきっか
けになったりもする。
 いろいろ話をしていたら、彼女が突然、
「今から行ってこようかな」
 と言い出した。
 夫から、出張に出る前に、一緒に行って週末を向こうで楽しもう、と
誘われたのは拒否したらしいが、夕方になって、今から行こうかな、と
彼女は考えが変わったのだ。
 列車の中、翌日は夫が仕事中で彼女が一人の時に、彼女からこまめに
メールが来て、私とやりとり。こういうことが心の安定に繋がるのなら、
ケータイって悪くないかも、と思わされた。
 夫とは、私と電話していた時には予想だにしなかった好展開になった
らしいが、それもこれも彼女が勇気と行動力を発揮したからだ。
 そんな彼女の幸せを思うと、嬉しいけど、置いてきぼりをくらった気
分になる。
 だから、何度かメールに書いた。
「あー、あほくさ」。
 愚痴に終始する人より、よっぽど尊敬しているのに。
 なんでだろ。
「あー、あほくさ」。