友達と観光地に行く時は、日帰りでも、しっかり日程表を作っていく。
先週フランス人が京都に来る時は、彼が清水焼の店に行きたいと言う
ので、五条坂は確定とし、歴史や伝統を感じられる場所が好き、混雑は
嫌、という彼の嗜好を考慮して、あとはどこに行こうか、と考えた。
彼もそうだが、ほかの友達も、行くことが決まっている場所以外は、
その日に会ってから、ここに行こうと思っている、と告げても、にこに
こ付いてきてくれるし、それで満足してくれるので、私としては、それ
以上望むことはない。
が、なんかなあ・・・と屈託する気持ちになることは、ある。日程を
考えている最中も、そう。
行ってよかったと思ってもらえそうで、私自身も行きたい場所を選び
出してから、効率良く回ることを考えて取捨選択に取りかかるが、この
時、はずすことになりそうな場所への執着が生まれる。なんとかして行
けないかなあ、と別の行き方を模索し、時刻表で検討する。バスの団体
旅行のように本殿や本堂だけをサッと見ればよし、というのは嫌なので、
一日にそう多くは回れないのである。
決定しきれず、迷う日々。
やがて、天啓のように考えが降りてきて、澄んだ心で納得できたら、
それに決め、まとめる。
最寄りの交通機関からの行き方も、時刻表の抜粋も全部印刷するのは、
スマホを持っておらず、現地で調べられないからだが、もし持っていた
としても、同じことをするだろう。
旅先で、景色を見ずにスマホで情報を探す時間を、有意義だと思えな
い。
私とて、その場で行く場所を変えることはある。しかし、そういう場
合も想定して、第二候補は印刷してある。
とにかく行ってから、あと臨機応変に、というあまりに広大な柔軟性
は、私には恐怖なのかも。あるいは、ちゃんと準備しておけば、その場
の軌道修正は最小限度の時間のロスで抑えられる、と思っているのかも
しれない。
そのために、事前にかなりの時間を奪われる。神経が疲れる。
そんなことには無頓着にのんきに旅を楽しむ友だと思うと、損な役回
りを引き受けているような気になってくる。
しなくていいよ、と言われたら、身悶えして抵抗するだろうに。
あそこにもここにも行きたい、と思ってしまう強欲さが動機なだけな
のに。
諦める必要を認め、欲を手放せた時、最善の日程が腑に落ちる。
人生みたいかも。
執着を手放す価値を、私は旅行のたびごとに経験しているわけだ。
ところで、こんな私の無償奉仕へのご褒美が、実はあるのだった。