願っても、叶わない

 目の前の人を、未来あるいの過去の私かも、という眼差しで見て、手
を貸してあげたら喜ばれそうなら、そうする。
 そうしたい、と考える私は、ゆえに、スピリチュアルの世界の、私も
あなたもあの人も地面から顔を出し、好きに咲いている草花のようなも
の、土の中の根っこは一つ、とする考え方に素直に心が馴染んだ。
 私は、あなた。
 あなたは、私。
 すべての存在は繋がっているが、この世では自我という分離を体験し
ているため、そのことを忘れてしまっている、とするワンネス思想であ
る。
 その手のブログを読み、本も読んだ。
 あの世のおおもと、ワンネスは、どこまでも白くなることを目指して、
この世という物質界に人々を送り出した。一人一人が魂を磨いてあの世
に持ち帰ったら、その分だけおおもとの純度が高まる、白くなる。
 ふーん、そうか。
 しかし、同じ著者の小説仕立ての別の本は、あの世に帰った登場人物
が、それぞれにこの世の外見、性格のまま繰り広げる物語。
 ワンネスと言うなら、あの世に帰った魂は、他の魂と渾然一体になる
べきではないの。
 そして、ワンネスという考えのもとに輪廻があるとしたら、今の私の
魂が、時を経て、またこの世に戻ってくるのではなくて、餅をついてで
きた大きな餅のひと固まりから、小さく手でちぎって食べられる大きさ
にするように、今の私の魂は、どこの誰のだったかわからぬ幾つもの魂
と混ぜ合わされて新たな一人の人間ができあがるのではないの。
 結局のところ、今の私の魂が輪廻後も続くのなら、ワンネスってなん
なのさ。
 ワンネスとは、この話よりもっともっと高次元に至った時のこと、な
のかもしれないが、ならば、その次元は今の私達に関与できない範疇と
なり、私達がこの世で一所懸命魂を浄化した方が良い、とする根拠は、
自分自身のより良き死後、来世のため、つまり、限りなく自我の功利の
ため、ということになる。
 それが悪いわけではなかろう。ワンネス思想と相容れないだけだ。
 思いが現実化する、という発想も、あ、そうかも、と食いつきたくな
るが、すぐに疑問が沸いた。
 手を上にあげたいと思ったら、手はあがる。
 けど、機能的に不可能な人は、いくら願っても手はあがらない。
 それは、その人の思いが弱いからだ、と説明するのか。
 こういう例外の多さに思い至ると、整数論の長年の難問、ABC予想
解明した数学者、望月氏の論文が、五年の査読を経てついに世界的に認
められる、という報告は心からの安堵だ。