ある初老の母親と息子

 エレベーターに乗らず、重い鉄の扉の向こうの階段を降りることにし
た。健康は、こつこつ、積み重ねである。
 目の前に、小柄な初老の白髪女性と、厳ついからだで眼鏡の若い男が
いた。男が苛立ったようにまくし立てている。二人が踊り場に立ち尽く
しているので、私は階段を降りられない。
 まずい場面に遭遇したのは間違いなく、扉の向こうに舞い戻ってエレ
ベータで降りようか、と一瞬思った。
 普通だったら、電車の中などで、一旦座ったものの、横の男が変な感
じだったら、立ち上がるには不自然なタイミングでも、臆せず立ち上が
り、隣の車両に移るようになっている私だったのだが。
 幸い、息子の方が私に気がつき、口論を止め、私を通してくれた。
 その階段のスペースは、扉を開けないと完全な筒状になる構造で、男
が再び大声を出し始めると、言葉が反響して私の耳まで届く。
 母親のために病院まで付き添ってきたのに、母親がどういう理由でか
診察を嫌がり、診察してもらわずに帰ることになった、時間の無駄だっ
た、というようなことを言っているように聞こえる。
 頭ごなしに言わずにいられない息子。普段から鬱憤が溜まっていたの
が爆発してしまったのか。
 赤の他人ではあるけれど、だからこそ、男に声をかけ、少しでも言葉
を交わしたら、気が紛れて冷静になれるのではないかなあ、と思う。
 思うに留める。
 と、男が鋼鉄の扉をドンドン叩き始めた。怖い。でも、母親を叩いて
いるのではないから、いいか。
 私は一階に着き、扉の外に出た。
 目の前に薬局があったので、そこの薬剤師に、階段の親子のことを告
げた。
 私としては、白衣の人が声をかければ、いち個人としてではなく白衣
の職業の人から声をかけられたということで、その職業に敬意を表して、
男が聞く耳を持ってくれるのではないか、と考えたのだ。
 しかし、女性の薬剤師は、隣にいた薬剤師も巻き込むが、
「館内のことは警備員さんに」
 と職業分担の意識で返答する。
 彼女達と一緒に警備員さんの詰め所に行くと、間の悪いことに巡回中
のようで、見当たらない。
 扉をドンドン扉を叩く音。男の罵声も漏れ聞こえる。彼らは一階まで
降りてきたのだ。
 男が扉から現われた。続いて母親。
 男がぷいと外に出て、母親が取り残された。
 男が母親から離れたのは救いに思えたが、老いた母親を置いて一人で
帰るつもりなのか。
 薬剤師は、もう一人加わって三人になった。でも、彼女達は遠巻きに
眺めるだけ。
 仕方なく私は母親に近づいた。