平均寿命が伸びても

 前回「拷問死」などという物騒な言葉を使った。「人体実験」という
言葉も。
 だが、私の実感である。
 慢性閉塞性肺疾患COPDのおじが、もう駄目みたいだ、と医師から
家族が召集されるも、そのたび持ち直して、
「この薬が効きましたね」
 医師自身が驚いたように述べたと聞くと、薬の人体実験をされている
ように思えてきたのだ。
 どのみち先が短い年老いたおじのためには薬が効かない方がよかった
のになあ。
 尿が出なくなっても点滴を入れられ続け、顔は水分過多でパンパンに
腫れ上がり、その状態で命を引き取ったと聞くと、やるせなかった。
 せめて、最後の最後は、からだから、そういう一切のチューブを抜き
取ってくれることはできないのか。
 抗癌剤の点滴も、死ぬまで続けると聞いている。
 ただ、いつ命が尽きるかを、医師は正確に判断することができない。
 なのに、勝手に治療の終了したら、命に対する越権行為になるのだろ
う。
 でも、そのせいで、無用な肉体的苦しみを耐え続けさせられる患者の
ことを思うと、つらい。
 おじと同じCOPDだが、まだ在宅酸素療法に至っておらず、違う病
状で救急車で運ばれ、二箇所の病院で入退院を繰り返した友達の父親は、
退院した。体力は格段に落ちたそうだが。
 この人も、一度、危篤を宣告されている。
 ただ、入院中、普通に口から食べていたという点が、おじとは大きく
異なる。
 やっぱり、年寄りは口からものが食べられるかどうかが境目になるの
かなあ。
 人は、食べなくなり、飲まなくなり、枯れて死ぬ。それが本来の穏や
かな老衰死。
 胃瘻を渋る家族に「親を餓死させるのか」と迫る医師がいたとしたら、
それは餓死ではなく大往生への第一歩だと理解してくれてもいいのでは
ないか。
 それよりも、病気のせいの痛さ、苦しさを、もっと取り除いてほしい。
 肺が駄目になると、溺れたような状態になると表現されるが、実際に
溺れる方が苦しみが短い時間で済む理不尽に考え込まされるのだ。
 痛みや苦しさの軽減、という医療の分野は、まだまだ進歩の途上、と
いうことに気づかされた。
 ちなみに、おばは、おじが救急車を求めた時、そうせずに家でそのま
まおじを見てあげられていたら、おじは最期までしっかりと喋れて、そ
の状態で息を引き取れたのではないかと詮無い想像してしまう、と語っ
ていた。
 数値としての生存率ではなく、最期まで人間らしい生存率が伸びてこ
そ。