どう死ぬか

 おじが長年の喫煙のせいでCOPDになり入院した頃から、私は死に
ついても語る医療関係の本を読むようになった。
 が、おじは人工呼吸器と口以外からの人工栄養という延命治療状態で、
聞き取れない声をかすかに喋るぐらいでも、喋れているから、まだ死ぬ
べき時期ではない、と私が考えるようになったのは、今思えば、私に圧
倒的に医学の知識が欠けていたせいだ。
 その少ない知識で編み上げられる誤った幻想。
 私は、「人の死は脳死」という言葉が強力すぎて、人は脳が機能を停
止しないと、つまり、喋れない、意識があるかないかわからない、とい
う状況になってからしか死なない、と勝手に信じてしまっていたみたい。
脳死」より「心肺停止」の方が遙かに多く見聞きするのに。
脳死」は、それにより、その人から臓器をもらいたい時だけに発生す
る特殊な死亡要件にすぎないのに。
 ところで、片肺が機能せず、息苦しさを緩和する術もなく徐々に衰弱
するおじを見て、心臓と肺なら、心臓の病気で亡くなる方がまだましだ、
と想像したとしたら、これもまた「無知の罪」になるだろうか。
 なんにせよ、人は、喫煙で肺が壊れなくても、肺癌などでも、息がで
きない苦しさに耐えて死ぬしかない場合がある。
 ただ、それらは自分ではどうしようもない病気である。
 だからこそ、煙草のせいでそうなったおじは馬鹿だ、と思わずにいら
れないのだった。
 そして、おじが尿が出なくなっても点滴をやめてもらえなかったのは、
煙草のせいで死ぬ人への治療という名の懲罰行為だ、という風に私が考
えてみたのは、もちろん、点滴でからだが無残にむくんで死ぬことにな
ったおじが哀れで、そう考えてみただけのこと。
 だって、おじは、治らないことが前提の慢性期病院にいた。
 なのに、穏やかに死なせてもらえなかった。
 ということは、退院できる前提の急性期病院で死ぬことになったら、
例外なく、心肺停止のその瞬間まで、回復するという前提で治療され続
けるのではないか。
「もう点滴はやめてやってください」
 と家族が言ったら、やめてくれるかなあ。
 それだと病院は単にベッドを貸すだけになり、診療報酬が稼げないか
ら、じゃあ、自宅にお連れください、と不可能なことを言うのではない
か。
 どう死にたいか。
 銃で撃たれるとか、呼吸不全で死ぬにしても、病院のベッドではなく
川で溺れる方が苦しみが短時間で済む、と憧れてしまう私は変だろうか。