道徳は教育なのか

 良識のある人、という限定になるが、そういう人が一定の状況に直面
すると、自分自身の功利、損得とは別の物差しを選択する、ということ
が西洋の国だと結構起こり得るのは、よく言われるように、キリスト教
という宗教が本人の自覚の有無とは関係なく身についているからか。
 以前、フランスで、違法移民として入国した家族が強制送還を言い渡
された際、我が子がその家族の子供と同じクラスのフランス人の親達が
その決定に抗議したことを思い出す。
 彼らにとって移民の多さは喉に刺さった魚の骨。声高に批難しないが、
心の中では悩ましき存在。ましてや違法移民は。
 けれども、ひとたび自分の生活圏内でそういう人と人的交流ができあ
がると、その人だけはほかの移民と区別して、自分達同様フランスの法
律が認める人権を有すべき人、として擁護する立場になる。
 フランスの友人宅を訪れる時、もちろん手土産は持っていくが、私の
滞在中、あちこち観光に連れて行ってくれ、外食も家族のように私の分
を支払ってくれ、感謝の気持ちをどう表わしたらいいだろう、とある時、
ニホン語の「ごちそうさま」に相当しそうなフランス語を言ったら、目
を丸くされてしまった。でも、そう言えば、私がホテル代を払うから、
と来日したフランス人を旅行に誘った時、礼は言われなかったなあ。
 一方、友達の友達は友達、は本当のようで、東京在住のフランス人が
面識のない相手を一週間家に泊めなければいけない、と憂鬱そうに言っ
ていた。拒否できなかったのは、キリスト教を信じていないと言いつつ、
キリスト精神が染みついていたからだろう。
 もっとも、宗教には排他性という問題がある。自分達の教義以外は認
めぬ不寛容さがいきすぎ、戦争になったりすることもあると思うと、ニ
ホンのような優柔不断さがよく思える。
 ただし、生きる背骨はない。
 あるように見えても、その「ある」は、これは違う、と否定するもの
を寄せ集めることで、そこに当てはまらないのを正統だと認識する非言
語的曖昧さとなる。
 恣意性だ。
 恣意性は感情でどうにでもなるところが、危うい。
 小学校で道徳が正式の教科になったとか。
 道徳って何だっけ。
「ある社会で人が善悪、正邪を判断し、正しく行為するための規範」だ
そうで、要は宗教の代わりになるものってことなのかしらん。
 親は敬うべし。
 嘘付きは泥棒の始まり。
 言うのは簡単。 
 この国の大人は皆、模範生だったのね。