生きる背骨

 先週、ドラマの恋の表現は、私には海外ものの方がわかりやすく感じ
られるが、今から見る『マスケティアーズ』で解明できたらいいなあ、
と締めくくったら、その日のシーズン三、第六話が始まった途端、解明
できてしまった。
 いきなり、惹きつけられ合っていた同士の濃厚なるキスシーン。
 唇を求め合い、重ね合わせても合わせても合わせても、互いが溶け合
って一つの物体になれないのがもどかしげな二人。切ない眼差し。滲み
出る妖艶さ。
 これで二人の仲を理解できなければ、さすがにもう終わりだろう。
 が、新たにわかったことがある。
 ああいうのは普通のキスではないな。
 ドラマの中の彼らだって、私生活ではあんな表情をしないのではない
か。必要がない。
 けれども、ドラマでは、第三者に当事者の気分が伝わらねばならない。
 そのための故意なる表情、仕草。
 怜悧に計算された美の様式。
 考えてみると、ニホンだと、軽く唇を合わせるだけ、あるいは引いた
ショットで推察してもらうのが大半で、ここまで露骨で、しかし、いや
らしさはなく、ああ、本当に惚れ合っている同士なのね、と温かい目で
見てもらえる演技ができるのは、なかなかの力量だということになるだ
ろう。
 ところで、ほかにも、私は、海外、特に西洋物のドラマや映画の方が
人物の心情に共感できる、と思うことがある。
 大抵は主人公だが、究極の決断を迫られた時、その最後の最後に、損
得勘定、私利私欲、願望などを手放し、別の物差しによって行動を決め
る時だ。
 それを選んだら不幸になるとわかっていても、その道を選ぶ。犠牲的
精神などという英雄志向の自己陶酔でそうするのではない。それを選び
たくはないが、それを選ばねば、人として、一生、我が魂は救われない、
と感じて、人を超越した倫理に身を委ねる。
 そのために振り絞られる勇気。
 それが、私の心を強く揺さぶる。
 心が濁っていなければ、本来、人は誰でもそういう場面ではそう考え、
そう行動してこそ聖なる精神である、と教えられる。
 きっとできないであろう自分を感じて恥じ入り、それができる主人公
を尊敬する。
 ニホンでも似たような物語はあるが、たまたま、その人が善き人だっ
たから、そういう選択が為されただけ、という印象になる。
 人物が違っていたら結末は異なっていただろう、と感じるということ
だ。
 魂の普遍性は、ない。
 そこに、好ましき多様性よりも不安定さを見てしまうのであったか。