お天道様は見ている

 前回、「道徳は教育なのか」をタイトルとしたが、考えてみると、す
べては教育である。
 子供が一人で歯を磨けるようになるのも、教わったから。
 道徳も、誰かに教えられてこそ。
 なのに、胡散臭さを感じてしまう。
 義務教育として教わる、というのが胡散臭いのかなあ。
 そうとも言えないなあ。
「道徳」という言葉から教わる内容を想像すると、どうせ絵空事、と思
うのは、人の世の現実とかけ離れた事を絶対にできる、いや、せねばな
らぬ、という結論に持ち込もうとするごり押しに無理を感じて、白々し
い気持ちになるからではないか。
 親は敬うべし。
 子を虐待するような親のもとに生まれてしまった場合、それでも親を
敬えと言われたら、その子はどうすればいい。
 嘘をついてはいけません。
 大人になるまでの道徳、と教えるのだろうか。だって、大人の世界は、
やれ自社製品の検査データ改竄だ、やれ品質表示の偽装だ、税金逃れだ、
と各種不正がてんこもり。
 みんな仲良く。
 真顔でそんなことを言われたら、いじめられている子はどう感じるだ
ろう。
 こういう理想を道徳だとして押しつけるのは、価値観の押しつけなど
ではない。底の浅い理想だから人々の賛同を得にくいだけの話である。
理想と現実の差がわかる人達が増えたのは教育のおかげだとしたら、好
ましき進化ではないか。
 なんにせよ、人の本質は意地悪だ、というのは、もう証明されている。
 理想をポンと提示したり、それを補強すべく都合の良い物語を読ませ
て心理誘導すれば済んだ時代は終わった。
 人は理想だとわかっていてもできないことがある、なぜだろう、と一
人一人が考え、意見を述べ合う。正解はなくていい。そういう授業なら
身が入りそうな気がするけれど。
 ところで、ニホン人は無宗教で、人を律する、人より高い存在を信じ
ていないから善悪の判断がすこぶる個人的になる、という意見があると
したら、
「お天道様が見ている」
 という言葉でニホン人は身を律してきたのだ、と反論したい。
 人間を造りたもうた次元の高い存在に対してやましくない言動をする
のだ、という決意。
 ただ、科学的でない、としてこの発想を脇に追いやり、すると心の拠
り所がなくなって、自分自身を法律とするしかなく、普通に考えれば当
然の人の道にも不明になっているのが現代のニホン人、とするなら、そ
の点を哀れんでくれてもいいだろう。
 お天道様、は宗教を越える叡智だったと思う。