言葉に時制がある限り

 私は日本に生まれて日本語で育ってよかった。
 外国人として生まれていたら、日本語に憧れても、早々に挫折した気が
するのだ。
 だが、悲しいかな、美術館などで昔の巻物や書物を見ても、読めない。
 昔の人が書いた文字が読めない。同じ日本人なのに。
 ところが、明治時代まで日本人なら誰もが読めていたと知って、衝撃だ
った。崩し字を読む教育がなされていたからだとか。それを政府が教育課
程からはずした。自分達の根っこに繋がる方法を教えなくてよいと判断し
たのだ。絶句だ。
 で、今。
 縦書きが駆逐されかかっている。
 童話は、こそっと横書きが主流になった。海外出版でも見越しているの
かね。
 日本語は、縦読みと横読みで脳の使い方が違う気がする。
 私は、情緒的な文章は縦書きでないと頭に入ってこない。パソコン上で
読んで保存する時は、わざわざ縦書きに変換している。
 が、そんな私がこの文章は横書き。心中、忸怩たるものがある。
 標準からはずれて頑張ろうとすると、急に面倒なことが増えて、断念さ
せられやすい、ということだ。そして、不本意ながらも一つの流れに巻き
込まれる。
 英語の方が世界に発信できる、良い収入を得られる。そんな損得勘定か
ら、英語がもてはやされる現代。
 日本語は価値なしとして、日本人自身から見限られることになるのかな
あ。
 しかし、昔の崩し字を現代日本語の文字に変換する「翻刻」ができるソ
フトの精度が高まり、注目を集めているとか。
 待てば甘露の日和あり、である。
 日本語の横書きは、テレビで東大の女子学生がすごいことを言っていた。
彼女も縦書きの方が頭に入るので、横書きの本は九十度回転させて縦読み
しているというのだ。
 早速真似させてもらうことにした。
 では、英語は。
『時間は存在しない』で、ロヴェッリは今の言語は過去、現在、未来とい
う絶対的な区別に基づいて作られていて、あなたにとっては「あった」で、
私にとっては「ある」、となるような物理学的な時間の真理を言い表わす
ことができないと嘆いた。
 要は、今のすべての言語が適さないのだ。
 ならば、根底からまったく異なる言語が創り出されればいいのではない
か。
 そのために、ひとまず人間の言語を一つに集約し、その後、それを徹底
的に解体するという方法がもっとも合理的だろうから、その目的のために
一旦英語、となるのは受け入れられる気がする。
 私が死ぬ前に日本語が死滅することはないだろうけど。