日本語の未来

 夏のパリで、バーゲン期間中、ショーウィンドーのバッグに気が惹かれ
て入ったら、イタリアのブランドの店だった。小さい店内にイタリア人店
員が一人。
 彼女と会話して購入するものを決め、あとは雑談。
 彼女は夫の仕事でパリに引っ越してきたが、一日中家にいる母親は嫌だ、
と娘に言われ、この仕事に就いたのだと言う。フランス語は二週間ほどで
覚えた。
 はぁ・・・。
 根っこが同じ言語は、習得がかくも容易なのか。
 学校で習っても英語が喋れないと嘆く日本人は多いが、仕方ないのかも、
と思ってしまう。
 それでも学ぶ価値はあるし、言語体系がまったく違う言語だからこそ学
ぶ挑戦は有意義になる、とも思う。
「あ、鳥が飛んでる」
 これは日本語として完璧に正しい。
 しかし、これを英語で言おうとすると、一羽かそれ以上かの情報を、こ
の文章の中に埋め込まなくてはいけない。
 でも、だから英語の方がすごい、と言うのは早合点。
 なんで一羽か二羽以上かの二者択一しかないのサ、と突っ込むことはで
きる。
 鳥という存在に純粋に意識を向けたいだけなら、そんな中途半端な分類
法は滑稽、と言ってもいいだろう。
 それでも、英語を使う文化圏の人達がそうするのが合理的あるいは有用
だと判断したから、それが文法規則にまで高まったのだ。
 言語には、それを使う人達の物の見方、考え方が反映されている。母国
語の中だけで生きていたのでは決して気づけない。他言語を学ぶ素晴らし
さは、そこにある。
 ただ、外国語と言えば英語で、英語さえ話せれば、というような今の日
本を見ていると、日本人は、心の底では日本語がなくなってもいい、ぐら
いに思っているのかなあ、とその深層心理を知りたくなる。
 日本語が疎かだから。
 と言うのは、学生の英語力の違いの所以を探っていて、やっぱり、結局
日本語の能力だ、と感じるようになったのだ。
 日本語能力が高いと、英語ができる。
 時折、日本語の言い回しが本来とは正反対の意味で理解されるようにな
ってきたとか、使い方が間違って広まっている事例の分析が新聞に載る。
「流れに棹(さお)さす」の意味の逆転。
「取り付く島もない」を「取り付く暇もない」だと思っている人の急増。
 けれども、この世で変わらぬものは何一つない、という世の理を言葉に
も当てはまめるなら、こういう日本語の変化は傷が浅い気がする。
 この手の現象は、まだ、日本語が消滅するよう「流れに棹さす」もので
はない。