「今ここ」ってどこ

「今ここ」と言われたら、初めて聞いてもピンとくるだろう。
「今ここを生きよ」と言われたら、もう確信が持てる。
 良いことを聞いたなあ、そうしよう、と思ったりするかも。
 アドラー心理学をわかりやすく解説して売れに売れた『嫌われる勇気』
も「今ここ」を語った。
 しかし、「今」って何、と突き詰めて考えると、困惑することになる。
 たとえば、腕を上げようとして、実際に腕が上がるのは、その何分の一
秒か前に脳がそう指令を出すのだとか。
 腕を上げると決めたら、腕が上がる。今考えたことが、たとえ何万分の
一秒後かであっても未来に実行されるのだ。
 思った時が「今ここ」なら、事はまだ起こっていない。
 そういう瞬間を積み重ねて生きよ、結果は思い煩うな、というのが「今
ここ」なのか。
 そうであるなら、なぜ、記憶がまばらになった認知症の人はかくも不安
げな表情になるのだろう。五分前の事も忘れてしまえるのは、まさに「今
ここ」精神の理想だろうに。
 もし、意図して、実行し、それを認識して初めて一連の行為が完結する、
と言うのなら、認識するためには、為したことを振り返る必要がある。つ
まり何万分の一秒かであっても、今より前のことに意識を向けなくてはな
らない。過去を気にする、ということだ。じゃあ、常に過去を見続けて生
きよ、というのが「今ここ」の真意なのか。
 要は、過去に影響されるな、未来を怖がって立ちすくむな、と言いたい
だけだろう。ただ、厳密に「今」を考えると、「今ここ」に過去も未来も
含まれることに気づいてしまう。
 そんな「今」って何。
 そういう疑問だ。
『時間は存在しない』の著者ロヴェッリによると、「宇宙の現在」が存在
しないと証明されて、百年以上になるそうな。
 なのに、時間は過去から未来に流れるという感覚を私達が手放せないの
は、私達の目が何百万の分子の踊りを正確に認識できない出来の悪さのせ
いらしい。
 地球が丸いことに反論がないのは、そういう映像を見せられ、納得でき
るから。
 ところが、時に関しては、子供でもわかるよう証明できないので、本当
は地球は丸いが、普段は水平線は一直線だと思って生きる、というように
事実と直感を共存させられず、時間の物理的事実は、孤立して、私達と無
縁であり続けているのだろう。
 ところで、時間に関する発見を語る際、妨害になるものとしてロヴェッ
リが指摘したものが私の心を射た。 
 私達の言語だ、というのだ。