自粛は要請できない

 先日、久しぶりに近くの百貨店に立ち寄った。
 久しぶりだったのは、新型コロナウイルス感染を怖れて、外出を控えて
いたからだ。
 馴染みの店員が忙しそうに商品と格闘中。新作が大量に入ってきたよう
だ。
 明日から百貨店が閉店するので、その作業に追われていると聞き、
「えっ」
 でも、まあ、すみやかなる感染終息のためには、正しい決断である。
 ところが、かの地、東京では、理髪店、美容室は開けてよし、という方
針が出たそうな。
 髪の毛なんて伸び放題でもボサボサでも、
「このコロナのあいだはねえ」
 と互いに嘆き合えば済むこと。
 テレビに映る政治家達が身をやつしたいからではないか、と勘ぐりたく
なる。
 まあ、所詮、かの地の話だ。
 が、飲食店での酒類の提供は夜七時まで、というのも意味不明だった。
 夜八時の営業時間間際まで客に酒を出しても、バレないであろう。
 うまくやったもん勝ちじゃん。
 ただ、自覚症状のない新型コロナウイルス陽性の客が来て、店で集団感
染が発生したり、店主が入院することになったら困るだろう。
 店は開けるが、客が来てくれなければいい、と考えよ、ということなの
か。
 だとしたら、それに加担するよう自粛要請を求められている私達って、
どう考えればいいのだろう。
 私は考えた。
 自粛とは、自分の判断で自分の言動を律すること。
 それを他者から要請されるって、言葉としておかしくないか。
 自分はかからない、とか、日銭が優先、とかで、コロナを軽視する人は
一定数いるはずである。
 そういう人への自粛要請とは、君は今までどおりにしてねと頼むってこ
となのか。
 そうではなかろう。
 ここに、この言葉遣いのいやらしさがある。
 周りの空気を読み、自分をたわめてでも周りに同調せよ。
 今、大多数が感染予防に外出を控えることを美徳としている。
 その良い子達は、異端者の中から感染者が出たりしたら、すぐにも石持
て打つであろう。
 しかし、人それぞれ、を人の権利として尊重するのであれば、人それぞ
れ、ゆえに個々人の考えは無視して、国民の命を感染から守るというただ
一点のみから国民を導けばいい。
 良い子も異端者も従うであろう。村八分は起きない。
 それを「自粛」だなんて。
 一人一人の良心に訴えかける形を取って一人一人を悩ませるようなこと
は、もうやめたらどうだろう。
 そうでなくても他人軸で生きて苦しい日本人。
「自粛」という言葉は、もう捨てたい。