もう「気の緩み」ですと

 中学時代、男女二人がペアで日直に当たることになっていた。
 三年生の時のこと。
 一日の終わりに、その日の日直の仕事を完遂したかどうか、クラス全員
に裁かれるのだが、名字の近さからほとんどその子と組むことになってい
た私は、毎回、力が抜けた。
 駄目だったと判断されたら、翌日もう一回という規則になっている。
 その子のせいで、私達は、毎回、やり直しが二日、三日と続いた。
 新型コロナで「人と人の接触機会を八割減」というような曖昧な判断し
か示せなかった国と比べたら、「黒板拭き」のように明快な項目ばかりだ
が、それでも、ちゃんと拭いたか否かの判断は一人一人の匙加減でどちら
にも転ぶ危うさがあり、そこに私は焦れ、失望したのだったと思う。
 でも、私はその子を責めなかった。
 だからなのか。
 卒業文集に作文と共に載せる自分自身の似顔絵を、その子は私に描いて
くれ、とのんきに頼んできた。
 私が引き受けたのは、それはそれ、これはこれ、と思ったからと、誰が
描いてもわからないと思ったからだ。
 が、できあがった卒業文集を見て、私は、鉛筆書きという同じ条件下で
も、描き手の個性が現われると学ぶことになる。私とその子の似顔絵のみ、
同じ線のタッチであった。
 なんにせよ、この日直のことがあったからかもしれない。
 上がぼやけた指示しか出さず、下に、
「どうすればいいかは自分で考えろ」
 と命ずる構図を、私は嫌悪するようになった。
 こういう態度を取る上は、下が答えを出すと、俺の心を真剣に読めと言
わんばかりに、
「それでいいと思っているのか」
 などと言って、下をいたぶり、無能扱いし、サディスティックな趣味を
満足させる気がするが、下が複数人いたら、事はさらに面倒になる。
 早急に上に忖度した答えを出し、自分だけはこの状況から抜け出したい
と願うのは誰しも同じ。ゆえに、下の者同士が牽制し合うし、足を引っ張
り合うこともにもなる。
 新型コロナ対策における政府の態度のせいで、案の定、似たことが起こ
ったなあと思う。
 お上(かみ)の判断を信じるしかなかった昔とは違うのになあ。
 国のトップの人達ほどの頭はないとしても、客観的な数字に基づき判断
してこそ、という教育を受けている私達。
 そんなふうに育った下の者達を煙に巻きたいなら、都合の良いデータや
数字を論拠にあげるが、見透かされないよう心を尽くしてこそ現代流だろ
うに。
 旧態依然に留まる国民の知への対応。
 あ~あ。