肉体と精神

 今年の正月明けに、シクラメンの鉢植えを買った。
 花びらの色は、先っぽに向かって白から薄紫色に変わるグラデーション
が珍しくて素敵。でも、一般の人の好みに合わなかったようで、売れ残っ
ていた。
 でも私は、次の冬に私の手で立派に花を咲かせるためにほしかったので、
その状態もその値段も理想的。
 とは言え、まだ、次々、花が咲いてくれると思っていた。
 葉をかき分けると、中央部分に三センチぐらいの小さな蕾が二つ三つ。
 ほうらね。
 が、そこまでで枯れる。
 結局、新たに咲く花はなく、買ってきた時から咲いていた花の最後の一
輪が、春分の日に咲き終わった。
 一方、葉はまだまだ生まれ続け、密集していく。
 と、ある朝、
「えっ」
 生い茂った葉の間からスーッと一本頭が抜け出て、鶴の首のような気高
き姿を見せるは、花芽ではないか。
 五月十四日。
 私は息を呑むほど感動し、そして悟った。
 葉をかき分けて見つけた、これと相似形の小さな小さな三センチほどの
花芽は、その小ささでその形に完成しているがゆえに、そこで成長が止ま
ってしまう運命だったのだ。
 今に至るまで、鉢の受け皿の水が切れたら水を足す、という以外のこと
をしていないので、条件は変わらない。
 むしろ、暑くなってきた五月に唐突に一輪咲いたことの方が不可解であ
る。
 この蕾は、六日後に花が水平に開ききり、普通の花ならこれで満開、と
思われそうな形になったが、これはシクラメンなのだ。花びらの一枚一枚
が、さらにぴんと背をそらせ、蕾の時と逆方向に最大限跳ね上がったとこ
ろで、完成形に到達した。
 今、さすがに茎が垂れ、終わりの時が近づいているが、この季節外れの
一輪は、私に、花として咲くべきものは、そうできる生命力を内部に宿し
ている、と教えてくれたのだった。そして、一度その歩みが始まったら、
よほどの妨害がない限り止まることはないのだと。
 生まれてきたばかりの赤ちゃんも、たった一年で、見違えるほど大きく
なる。
 さなぎから蝶へ。
 ヤゴが蜻蛉に。
 自らの意思でそうなるのではなく、時が来れば勝手にそうなる。
 生命の神秘と言うのであれば、それに突き動かされて勝手に変化する。
 精神は、その変化する肉体にただ付き従っていくのみ。
 あ、でも。
 あらかじめプログラミングされている肉体の変容と違い、精神は、精神
自身の望む方向を目指していける。
 自由がある。
 自由は宝物。
 そんなことを考えさせられた。